『あまちゃん』を批判する。その弍。

本日発売の「週刊金曜日」p47に『あまちゃん』批判を執筆しました。
p46には別なライターの方の絶賛記事が掲載されているので対比の明瞭な見開き構成です。
おそらく宮藤官九郎の作品でなければここまで危機感をおぼえることもなかったでしょう。

震災をめぐるフィクションでまともなものはほとんどあらわれておりません。
映画で言えば松江哲明監督の『トーキョードリフター』、岩井俊二監督の『friends after 3.11』、
篠崎誠監督の『あれから』、そして塩田明彦監督の短編『世界』ぐらいのものです。
それほどまでに、描きづらい、扱いづらい「対象」なのだと思います。

『あまちゃん』は論じるに値する作品だと思います。
たとえば東京篇は『真夜中の弥次さん喜多さん』を参照すれば、その果敢な企みをより濃厚に愉しめるかもしれません。
わたしは、重箱の隅をつつくような作家論には、もはや興味を失っていますが、
そのようないじり甲斐もある破格の「連続テレビ小説」であったことは間違いありません。

わたしの疑問は、次の一点に尽きています。
『あまちゃん』に熱狂しているひとびとは、ほんとうに、最後の一ヶ月(正確に言えば五週間)を目の当たりにしてもなお、
それまでの熱狂を継続していたのでしょうか。

この作品において、小ネタは、iCloudのように宙に浮いているものではありません。
太い幹に連結されているものでした。そのことは、四月から六月にかけて三ヶ月、すなわち一季節を投入して丁寧に誠実に描かれていたと思います。
八〇年代の日本歌謡史のサンプリングは、北三陸で生きる三世代の女性の現在に、しっかりつながれていました。
しかし、震災篇(あえてそう呼びたいと思います)では、ネタと軸は、完全に乖離しています。
逆に言えば、ネタは消滅しています。『あまちゃん』らしきムードのなかで繰り広げられる、ただの、ありがちな「震災ドラマ」の姿がそこにありました。
あれが「結論」なのだとしたら、実に豊かに振る舞われていた、素敵なネタたち、そして愛すべきキャラクターたちは、いったい、何だったのでしょうか。
宮藤官九郎ならではの独創が、すべて震災という巨大な、あらかじめ定められた「物語」に回収されたように感じました。

もし、ほんとうに疑問を感じていないのであれば、あるいは、疑問を感じていても言い出しにくい空気があるのだとすれば、
それは、2020年に開催されるらしい、東京おもてなしオリンピックをめぐる状況にとてもよく似ていると感じます。

とても不思議なのですが、アベノミクスやオリンピックや『風立ちぬ』への批判を目にする機会はあるのに、
『あまちゃん』へのそれはまったく見かけないということです。
いったい、そこでは、何が起きているのしょう。

これは、宮藤官九郎の問題でもなく、NHKの問題でもなく、
フィクションというものに向き合うわたしたち全員の問題なのではないでしょうか。
そうした想いから、書かせていただきました。

相田冬二

2013.10.4

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?