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割り算のドラマ「だが、情熱はある」

 オードリーの若林正恭。南海キャンディーズの山里亮太。漫才師の枠を超え、ソロでの活躍も顕著な二人は、「たりないふたり」としてテレビ番組内でコンビを組んでいたことがある。

 両者それぞれの、芸人未満だった時代から「たりないふたり」解散ライブまでを描く。第3話までは、セパレートされたドラマが交錯されたかたちで紡がれた。

 いずれも多芸で、文筆家でもある。そのためエピソードには事欠かない。報われない自信が不発を繰り返す若き日の姿は、自虐より批評性が際立ち、どうにもならない己を見つめる視線のタフさが、いわゆるサクセスストーリーの外側へと、視聴者を連れ出す。

 ネガポジを逆転させながら清濁合わせ呑むグルーヴィな映像筆致によって、苦労話やありきたりのカタルシス満載の「よくある青春像」から自然にドロップアウトしていく様が実に心地よい。

 つまり、このドラマは、実在人物の芸人人生の批評であると同時に、青春ドラマなるジャンルの脱構築でもある。そして、青春を回避するファイティングスピリットこそが青春に他ならないという、案外古典的なモチーフのルネサンスでもある。

 そう、複雑な行程を経て、ようやく到着できる普遍性が本作にはあって、なるほど、これは連続ドラマという時間軸があって初めてもたらされる「遠回りの愉悦」だと感じる。

 その点で、このドラマは、実に優雅な作品なのだ。

 ほぼすべての春ドラマの第1話を視聴して、現代の連ドラは、やけに切羽詰まっていると思わせられた。

 ラーメンで言えば、「全部乗せ」状態なのだ。あらゆる具材をとにかくトッピングしてしまう。取捨選択という判断はほとんどなく、とにかくありったけのものをのっける。しかし、新しい食材は何一つ見当たらず、どれも似たような具ばかり。ひたすらボリュームと品数で勝負しているだけだから、どんぐりの背比べになる。ラーメンはどこまで行ってもラーメンでしかないのだから、いくら「全部乗せ」したところで、個性は生まれない。

 「だが、情熱はある」は、盛ることよりも、抜くことを優先し、若林正恭サイドと山里亮太サイドで分裂することで、掛け算ではなく割り算のドラマツルギーを生み出した。

 「全部乗せ」ドラマは基本的に、お腹いっぱいにさせることが第一義となっており、観客に考えさせることを一切しない押し付けである。だが、この割り算ドラマは、解散ライブの模様も同時進行的に描くことで、さらなる細分化を施し、みじん切りにした物語の隙間から、若林と山里という固有の人物の生き方を分解・考察させる余裕がある。

 人気者ふたりの不遇時代を描くという大命題とは別に、観る者を能動的にさせる仕掛けが明快に作動している。面白さというものは、このように生み出されるのだという発見がある。

 ほとんどの芸人は頭脳派で、若林や山里も例外ではない。「だが、情熱はある」もまた頭脳派ドラマであり、その貫き方こそが、ふたりの芸人へのリスペクトとなっている。

 実話に忠実であることがリスペクトなのではない。

 若林を演じる髙橋海人も、山里を体現する森本慎太郎も、真似るのとは別のリスペクトを演技に付与しており、コスプレに見えてコスプレではない表現を形作っており、爽快。

 屈折をカムフラージュするおとぼけ。

 真っ直ぐに突進する嫌らしさ。

 人物を単色で片付けるのではなく、ツートンカラーでコーディネートしており、長所短所にとらわれない、そのキャラクター独自の味わいを醸成している。

 髙橋はテクノミュージックのように淡々とリズムを刻み、森本はソウルミュージックのようにエモーションをかき立てる。その違いことが面白い。

 ボケとツッコミという役割分担に留まらず、多様性ならぬ「二様性」を重視した、演出と演技のコラボレーションは、若林と山里の遭遇を描くこれからに、何が起きるか大いに期待させてくれる。

 

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