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瑛太はシザーハンズ。『友罪』について。

瑛太という演じ手は、映画『シザーハンズ』の主人公を思わせる。

エドワード・シザーハンズ。両手がハサミの状態でこの世に生まれ落ちた人造人間。優しい心の持ち主ながら、意図せずに相手を傷つけてしまう危険性がある。誤解を受けやすいパンキッシュな見た目。周囲の偏見の増長が、彼の繊細な内面を追い込んでいく。

エドワードを体現したジョニー・デップのルックスや演技アプローチと接点があるわけではない。他者がビジュアルから感じとる凶暴さと、本人の胸のうちには明らかな隔たりがあり、そのギャップと落差ゆえに強烈なインパクトを観る者に残し、いたたまれない気持ちにさせる。そんな場所に連れて行ってしまう、アンバランスな存在感が瑛太の表現には備わっている。


初期の出世作『青い春』での鋭利な刃物のようなテクスチャから、近作『光』での地獄に我が身を投げ出す尋常ならざるピュアネスまで。その印象は変わらないどころか、より一層、深いところで蠢き、アメーバのごとき生命力を解き放ちつづけている。

『友罪』の瑛太はそのような、もはや「持って生まれた」と形容する他はない個性が、血管を流れる血のように平然と横行し、観る者に迫り問いかける。

ある猟奇的な事件の容疑者だったと思われる青年。かつて「少年A」と呼ばれ、日本全国にその名を轟かせた人物を、瑛太はここで演じている。実話ではない。モチーフとなった現実の事件があるだけだ。だが、瑛太が画面に派生させる脈動は、フィクションを超えた生々しさで、人間の輪郭をわたしたちに植え付け、無関係ではいられなくする。

生田斗真扮するジャーナリストも近づき、彼と友情を育むが、一生忘れえぬ「後ろめたさ」と無縁ではいられなくなる。


ここに、俳優・瑛太の稀有なエナジーの本質がある。

誰かを惹きつけ、吸引する。だが、接近した誰かに自身のすべてを理解させるような時間はついに訪れず、ただその闇の深淵にふと触れたことで、そばにやって来た誰かは、その強烈な命の匂いだけを心身に刻むことになる。こびりついて離れない残存だけが、記憶と化す。

つまり、瑛太がある人物を演じるときに生まれるオーラは、ひどく身体的なのだ。『友罪』で彼が演じているキャラクターは、実にナイーブである。彼はもう二度と他人を傷つけたくないと思っている。しかし孤立する彼の魂は「どうしようもない」ほどの衝動と隣り合わせにあり、それを制御できず、あるとき、自分を痛めつけることにもなる。その、あたかも事故のようなシークエンスに遭遇したとき、わたしたちの内部に、ある戸惑いが生まれる。

わたしは、このひとのことがわからない。けれども、抱きしめたい。しかし、抱きしめたところでどうにかなるとは思えないし、抱きしめたことでわたし自身が壊れてしまうかもしれない。でも。

そんな躊躇と混迷のループ。

ひとは、理解できないからこそ、近づいてしまうことがある。また、傷ついてしまうことがわかっていても、抱きしめたくなることがある。

人間の精神と神経にもともと設置されているアンビバレンツな感情を、瑛太は愛撫し、刺激し、高めていく。『友罪』は、そんな彼の特異性をまざまざと体感させてくれる映画だ。



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