ハッピーエンドはいつだって、たったひとりで走っている。

ハッピーエンドはいつだって、たったひとりで走っている。

いつまでも終わらないでほしい、そんな映画は山のようにある。だが黒沢清の「Seventh Code」は、いつ終わっても一向にかまわない、そのような態度でわたしたちを射貫く。
愛しさとか、輝きとか、もはやそういうことではなく、一瞬を燃やしつくしながら生きているといった状況がここでは、いささかも奇蹟めいた素振りを見せぬまま、それが人生、と言わんばかりの平常心で命を転がしてゆく。
息を呑んでいるひまなどない。震えている場合ではない。逆に言えば、ここでの前田敦子は毎シーンごとに死んでいるし、毎カットごとに滅んでいるといってよい。
だがこれは死者の映画ではないし、ゾンビの映画でもない。ただ人間は、あるとき、ある場所のなかで、その都度、己を死滅させている、それこそが生きつづけるということなのだ、と弁解なしの宣言を刻印してゆく。
楽天家を自称してきた黒沢清だが、全編これハッピーエンドという作品はさすがに初めてではないか。
ゴダールは「リア王」のなかで「THE END」の文字を反復=明滅させたが、黒沢清は目にもとまらぬ推移で映画すべてをハッピーエンドに染めあげた。
前田敦子の顔面をあくまでも平坦に捉えた映像は、その証である。
何処までもハッピーエンドがつづいてゆく。それはペンキのような色彩であり、それこそが前田敦子という現象の特異性なのだと、黒沢清はここで発見した。
地球は青かった、ならば、前田敦子はハッピーエンド色をしていた、そのような探検家の呻きを、わたしは確かに聞いた。

ハッピーエンドはいつだって、勝手に終わってゆく。
そして、それは何度でも繰り返される。
わたしたちは、いつそれがはじまったのかも知らぬまま、ただ延々と「終わりの淵」に立たされつづける。
「幸福」な「結末」があるのではない。「終わること」が「しあわせ」なのだ、わたしこそがハッピーエンドなのだと、「Seventh Code」は告げている。

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