初心。

大好きな絵本作家の原画展をみに、吉祥寺まで足を伸ばす。
今日が最終日。仕事がつまっており、何度かあきらめかけたが、なんとか駆けつけることができた。
小さな小さな絵本屋さんの壁に、18点。カラー作品の実物をみるのは初めて。
寸分たがわず想像どおりだった。
サイズも。色彩も。テクスチュアも。作品とわたしの距離感も。
ちょっとこわいぐらい。でも、あっけないほどに、イメージそのままで、その人の絵はそこにあった。

吉祥寺には気になるお店がたくさんあるが、脇目もふらず、西荻窪に向かう。吉祥寺からはJRで、ひとつ。

何年ぶりになるのだろう。
まだ先代のご主人が健在だった頃だから、かなりの年月が過ぎてはいる。
大好きな店である。
だが、ここで食べるためだけに何度も西荻を訪れたが、食べられたのはその半分ぐらいだけ。
いまはそうではないようだが、かつては営業日も営業時間も不定期で、行ってもやってないことが多かった。そういうときは仕方なく「鞍馬」に入る。申し訳ないが、「鞍馬」はすべりどめでしか行ったことがない。ここがやってなくても「鞍馬」はやっている。つまり、わたしはほぼ「はつね」と同じぐらいの回数「鞍馬」に行ってるわけだ。あくまでも、すべりどめなのだが。(本当に、ごめんなさい)

ごく初期には、ラーメンやワンタン、チャーシューがらみも試していたが、基本的にここはタンメンの店だと思っている。
風邪をひいたり(わたしは馬鹿なので滅多に風邪をひかないが)、元気がなかったりしたとき、ここのタンメン大盛りを食べると、必ず回復した。体調が悪いとき、西荻に向かった。(やってなくて「鞍馬」のパターンもかなり多かったが)

ご主人のタンメンはもちろん美味かったが、奥さんの作るタンメンもなかなかだった。
ご主人のタンメンにくらべると、やや味わい的に桃色がかっていて、こころがまるくなった。

ご主人が亡くなり、婿に入った料理人(彼は日本料理を修業中だったが、ご主人の味に惚れ込んで、ラーメン作りを習ったというのは有名な話)が現在は後を継いだ、ということは聞いていた。
西荻在住の知人に会うたび、「大丈夫? はつね」と訊いていたが、彼女の答えはいつも「大丈夫。若主人がんばってるから。相変わらず美味しいよ」だった。
だから安心はしていた。だが、どうしても、足が向かなかった。その勇気がなかった。

「はつね」は、わたしにとって、とても大切な場所だったからだ。

西荻は、遠い。
やっと来れたという感慨があった。

午後二時すぎだっただろうか。
6席のカウンターは満席。だが、待っている客はわたしだけ。
店内の様子をのぞきこむわたしと、若主人の目が何度か合った。眼光が鋭い。
しばらくすると若主人が勝手口から外に出て、注文を取りに来る。

「タンメン」

ずっと「タンメン。大盛り」だったが、今日の気分は大盛りではなかった。「はつね」のタンメン自体、かなり久しぶりだが、普通盛りはさらに久しぶりだ。

ほどなくして中に通される。右から三つ目の席。ベストポジションである。ご主人の動きの全貌が見渡せる位置だ。

店内も厨房も驚くほど変わっていない。
ご主人がいないことが、少し信じられない。
若主人の動きは、先代にくらべれば、はるかに迅速で、丁寧で、調理に関しては慎重だ。最終的にちょっと何か手を加えるあたり、イマ風というのか、二代目なりのこだわりも垣間見える。
しかし、行列が立て込み、席が開くなり、店の合図も待たずに強引に中に入ろうとする客にリズムを狂わされる一面もある。連日行列、待てない客も多いだろうに、さばきも、あしらいも、まだまだ慣れてはいないように思える。
しかし崩したリズムを立ち直らせるスピードとしぶとさがある。その様に好感をもった。
立ち直らせようとする瞬間、彼の初心が見えた。

盛り付けは完璧。ある意味、ご主人を凌いでさえいる。
野菜が増えた気がする。
印象として、先代のタンメンは野菜と麺が半々だったように思うが、いまは野菜の中に麺が隠れている・・・そんな感じだ。
スープ。
ゆるぎなし。
「はつね」のタンメンの何が優れているかと問われれば、スープの温度と味わいの優しさの共存、とわたしは答える。
鋭く突進してくる激しい熱の中に、たとえようもない優しさが秘められている。
だから、舌を火傷しそうになりながらも、次から次へと食べてしまう。なぜなら、そうしていなければ、かけがえのない優しさがどこかに飛んでいってしまうかもしれないと思わせられるからだ。逃すまい、逃がすまいと焦りながら、わたしはいつもタンメンを食べる。
キャベツ、ニンジン、もやしというシンプルな具も、ほぼパーフェクトと言っていい。量は増えたが、スープとの渾然一体感、あぶらの加減も絶妙だ。やっぱり、元気が出る。
麺はやや力がないかもしれない。野菜に包囲されていることも影響しているが、存在感として、やや細くなった印象がある。もちろんマイナスではない。これはあくまでも先代との比較の話で、料理としては、これはこれで完成している。
唯一、欠けているものがあるとすれば、最後のスープを飲み干すときまで温度が持続しなかったことだろうか。わたしの食べるスピードがかつてよりダウンしていることも大きいが、最後の一滴を飲むときに、先代のタンメンが終始維持していた透明感がやや薄らいでしまっていたことに、気づいた。
温度と透明感を、最後の最後までキープすること。これができれば、★5つである。

あれだけ真剣に料理している若主人だ。そんなことは百も承知だろう。
継いでから数年が経つ。だが、彼はいまもなお、初心を忘れず、厨房に立っている。
信頼に値する料理人であり、信頼に値する店である。

再訪してよかった。


追記。

わたしは、この店を知ってから、ラーメンに一切胡椒をふらなくなった。

2008年9月執筆。

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