松田優作と草彅剛。

去年、桃井かおりに初めてインタビューした。森田芳光について語ってもらう企画。松田優作が森田を自分に紹介し初対面の場で「一緒に仕事をするべきだ」とほとんど強引に命じたというエピソードを優作の真似をしながら話してくれた。桃井かおりは自分の芸風をくずさぬままその場にいるひとたちに対して気を遣うひとで「優作がもっている汚れがそのまま出たのは『家族ゲーム』だけなんじゃないの」と、素の優作を知る彼女にしか言えないことばで森田をたたえた。森田のことが宇宙でいちばん好きなおれはうれしさを噛みしめたが、その直後に発したことばにはもっとグッときた。「自分で監督したの以外ではね」。松田優作の監督作品。『ア・ホーマンス』のことである。演出のことばかりが話題になり、また内容もほとんど石橋凌主演のようなところがあったから、あの作品での優作のたたずまい、存在感は当時あまり語られていなかった記憶があるが、桃井かおりは優作の俳優としてのベスト・パフォーマンスは『ア・ホーマンス』と『家族ゲーム』なんだという想いをそんなふうにさらりと口にした。飲み仲間であり、戦友であり、親友でもあったからこそ。「優作が私に監督を紹介してくれたのは、それが最初で最後だった」と。
さて。『中学生円山』における草彅剛は、この『ア・ホーマンス』の松田優作を彷彿とさせる。なにが凄いのかわからないような凄みというか。それはきわめて人工的であると同時にきわめて生々しい。設定をこえている。物語をこえている。生命よりも存在だけがそこにいるような。強靭なとりとめのなさ。答えはない。問いすらもない。この映画の中心にいるのか、それともフォルムそのものなのか。それすらも容易に判断できないなにかとして、けれどもたしかにそこにいる。「理にかなうこと」「腑におちること」「伏線が回収されること」が映画の醍醐味だと勘違いしている観客にとっては「不親切」な作品として片付けられるのだろう。しかしそのような怠惰な客の深層にも、草彅が放射する不透明な粒子は、確実になにかを沈殿させることだろう。発芽などさせなくともよい。それはただ埋め込まれつづけるのだ。『中学生円山』のプロデューサーは撮影現場で『家族ゲーム』における家庭教師と中学生の関係性が根底にはあると述べていた。しかし今回参照すべきは『家族ゲーム』の松田優作ではない。『ア・ホーマンス』の松田優作である。シーンを具体的に想起させるのではなく、漠然と説明不能な大気だけが漂っている。そのような地点に『中学生円山』の草彅剛は存在しているのである。

2013年執筆。

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