これからどうなるかわからないから、恋をする。未知の現象、未知の時間を分かち合うこと。『窮鼠はチーズの夢を見る』    

告白、ということについて、深く考えさせられる映画だ。 

告白するということ、のみならず、告白されるということ、さらには、告白したあと、告白されたあと、について想いを馳せることになる。 

告白というのは、片方の意を決した行為だが、ひとたびその行為がおこなわれてしまうと、一方のものではなくなる。望む、望まないにかかわらず、双方のものになってしまう。 

ひとりのものだったものが、ふたりのものになる。 

このことによって、大いなる変質がもたらされる。実は、この変質こそが恋なのである。 

しかし、片想いを片想いのままにしておくことを選ぶひともいる。なぜなら、そうすれば、ひとりのものとして、とどめておくことができるから。 

だから、告白しないという選択は、ただの臆病ではなく、恋らしきものを自分だけで独占しておくための、ひとつの方法でもある。なにに価値や基準を設けるかで、この決断も変わってくる。 

もうひとつ、重要なことがある。 

告白とは、自分が傷つくばかりでなく、相手が傷つく可能性が高いということ。 

たとえば、告白された側が、告白した側に、お断りをする場合、断られること以上に、断ることのほうが、心身に痛みを伴うことも考えられる。ひとが、告白を躊躇い、戸惑い、悩むのは、自分が傷つくだけでなく、相手に傷を負わせてしまうかもしれないからである。 

好きな相手だからこそ、そこを考える。だが、正しい答えは、わからない。わからないからこそ、恋でもある。 

後輩は、大学生だった七年前から、先輩に恋をしていた。お互い社会人になったいま、ふたりは思わぬ再会を遂げる。後輩は、興信所で探偵をしている。依頼のあった浮気調査の対象が先輩だった。依頼主である先輩の妻が睨んだ通り、先輩は浮気していた。後輩は、先輩が勤める企業を訪れて、直接交渉をする。浮気の事実は伏せておく。だが、虚偽の報告をするかわりに、自分と関係しくれ、と命じる。 

裏取引である。 

七年越しの告白。それを、こんなアンチロマンティックなかたちでおこないたくはなかっただろう。しかし、後輩はそうした。ロマンに逃げこんで、想いを、ひとりだけのものとして封印するのではなく、相手に半ば強制的に投げかけることに賭けた。自分の「好き」をベットした。 

先輩は、接吻を受け入れた。だが、その先は拒んだ。しかし、後輩の想いや、後輩の存在そのものを拒否したりはしなかった。 

後ろ暗いはずの「契約」を、ふたりは決して、単なるシリアスにはしなかったし、ありきたりの苦悶に雪崩れ込んだりもしなかった。もともと同性の先輩後輩という間柄だったからか。いや、違う。このふたりだからこそ、別なニュアンスが生まれた。 

そうして、ふたりの時間がはじまった。 

告白は、ひとつの分岐点である。 

告白という行為は、告白する側と、告白される側を分けるが、告白したあとと、告白されたあと、というあたらしい時間をスタートさせる。 

告白したあと。告白されたあと。 

ふたつの時間は分断されずに、ひとつに統合される。もし、告白がお互いに傷を負う行為だったとしても、その傷は、その痛みは、ひとつの時間のもとに、分かち合あえることになる。 

この作品が、古今東西の恋愛映画と一線を画するリアリティで、わたしたちを生まれ変わらせるのは、その推移を、揺らがぬまなざしで見つめ、濁りなく差し出しているからだ。 

告白したあとも。告白されたあとも。 

それは、どちらにとっても、未知の現象であり、未知の時間なのだということ。 

告白した側も、告白された側も、どうしたらいいか、わからないことでは同じなのだ。 

恋とは、未知なる現象。   

どんなかたちであれ、どんな関係性であれ、ふたりで創り上げる、未知の時間。 

わたしたちは、無意識のまま、そのわからない時空に、固有の恋を捧げている。

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