見出し画像

半分と半分。川村元気の映画『百花』について。

 川村元気は小説にしかできないこと、映画にしかできないことがわかっていて、その熟考の果てに、本作はあるのだと思う。

 ワンシーン=ワンカットという、映画を志す者であれば誰もが浮き足立つしかない戦略的手法を選びながら、作品そのものが浮き足立つ瞬間は、ない。うっかりすると、この映画がワンシーン=ワンカット方式で撮影されていたことを忘れてしまうほど、『百花』は『百花』だけの時間を生きている。

 もちろん、編集や音楽によって、映像が再構築されてはいる。だが、それ以上に川村は、初監督作であるにもかかわらず、長回し撮影をこれ見よがしに誇示することを拒んでいる。あの、映像の作り手と鑑賞者が共に持久走を味わう(映画好きはそれに陶酔しがちだ)誘惑に一切、靡かない。

 完成した映画『百花』に最も衝撃を受けたのは、この禁欲的なまでの時間の構築だった。

 撮影初日、立ち話をした際、川村は、ガス・ヴァン・サントの『エレファント』からインスパイアされたものがある、と語った。なんなら、『エレファント』の少年が着ている黄色いTシャツからの影響も大きい、と。

 ワンシーン=ワンカットは、被写体をスーパーフラットに捉える契機を与える。『エレファント』には冷徹なドキュメントに映る瞬間もあった。

 映画『百花』は、『エレファント』を単純に模倣しているわけではない。そうではなく、観る側の視点が真新しくなる、その一点に共通項がある。

 小説「百花」では、あくまでも、息子・泉が母・百合子を探索する形態が選ばれていた。

 しかし映画『百花』は、菅田将暉と原田美枝子という偉大な演じ手ふたりを召喚したことにも明らかなように、泉と百合子が均等な存在になっている。どちらかに主体性があるわけではなく、泉のドラマと、百合子のドラマが等価のものとして存在している。これから父親になることに不安をおぼえている泉も、空白の一年を後悔していないと告白する百合子も、フィフティフィフティなのだ。どちらが上でも、下でもない。妻・香織は「お母さんをいつまで謝らせるの?」と、泉に問う。しかし、謝らせている泉のことも、謝るしかないことをしてしまった百合子のことも、映画は断罪しない。川村元気は断罪しない。ここに、作家の矜持がある。

 これは、ハーフ&ハーフのストーリーだ。

 半分の花火。本作の象徴的なモチーフが、すべてをあらわにしている。その意味で、川村元気は極めて潔い映画監督でもある。目に映るすべてのものは、半分でしかない。そう正々堂々と宣言しているのではないだろうか。

 この映画は「半分」と「半分」で出来ている。

 百合子の「失踪」と、泉の「迷子」は、同一のものとして語られる。それらは、リヴァーシブルで、互いを補完しあっている。ふたりが母と息子だからではない。双方が直面した、ある出来事を境に、それぞれ固有の人生が可動しているからだ。それは、幸不幸で分別できるものではない。

 泉も、百合子も、その一年に対して心で蓋をしてきたのではないか。そして、この蓋をするということが、「忘却」という主題にも結びついている。

 百合子の「忘却」は、はたして、アルツハイマーの症例に過ぎない、と言い切れるだろうか。では、泉が肝心なことを憶えていないのは、単なる物忘れなのか。親子が共に、ある出来事に蓋をしてきたことが、それぞれの「忘却」を招いてはいないか。いや、そもそも、人間はすべてを記憶していることなど出来はしない。これは年齢や老化には関係ない。

 この「忘却」をとても愛おしいものとして、小説とはまた違ったかたちで、映画は画面に定着させている。ふたりは、互いに異なることを「忘却」することで、確かに結びついてもいるのだ。

 愛憎では片付けられない何か。小さくて普遍的なもの。小説では細やかなエピソードの集積で綴られたことを、映画は、たとえば動物ビスケットを手渡す行為のリフレインと変奏によって、さり気なく浮き彫りにする。シンプルな触感によって、なぜか「忘却」が愛おしいものになる。

 憶えていること。憶えていないこと。その割合は、ひとによって異なるにせよ、わたしたちの記憶は「半分」と「半分」なのではないだろうか。

 自分にとって大切な相手には、自分にとって大切なことを憶えていてほしい。大切を共有していてほしい。それが人間の情であり、エゴでもある。しかし、同じ出来事を体験していても、相手は自分とは別なことを記憶しているし、記憶していてほしいことを記憶しているとは限らない。

 半分の花火。

 湖面に映る「半分」は、泉を救ってはくれなかった。百合子は、彼方に行ってしまったように思えた。

 しかし最後の最後、彼方に見えた、その花火は「半分」が団地に隠れているからこそ、泉を救済する。見えない「半分」が、何か大切なことを語りかけてくるのだ。

 わたしたちは完全ではない。「半分」と「半分」なのだ。だからこそ、両眼で見てみよう。右脳と左脳の両方で感じてみよう。川村元気は、そんなふうに、映画で伝えているように思える。

 片方の目で、泉を見て、片方の目で、百合子を見よう。片方の脳で、泉を感じて、片方の脳で、百合子を感じてみよう。

 もう「半分」を知るために。

 もう一度、あの愛おしい映画が観たくなる。

 

 



 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?