『あまちゃん』を批判する。その壱。

あまちゃん最大の問題はメタフィクション構造をまっとうせず放り出してしまった点にある。エヴァやまどマギでは重要な争点になるこの部分を無視して震災ですべて帰着させたことがぬるすぎる。
あの小泉今日子がアイドルになれなかった女の子を演じ、演劇人たる古田新太が下北沢をディスる。これはお遊びではなくメタ、つまり批評性に他ならなかった。もしあれらがお遊びだとしたら、九月の震災以後の世界もお遊びにすぎない。
架空の場所からの生中継を謳った紅白はお遊びでしかなかった。空虚なトリプル楽屋落ち。
お遊びなど観たくはない。
やはり、どんな役でもいいから俳優、宮藤官九郎を登板させるべきだったのではないか。そうすれば、メタフィクションそのものに壮大な決着をつけられたかもしれない。
お遊びにしない方法はあった。だがそれが放棄されている点が問題なのである。
震災が感動ごっこではないように、フィクションもお遊戯ではないはずなのだから。

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「あまロス」とかいう便利なことばを平気で使えるひとは、真っ先に「あまちゃん」を忘れたいひとなんだろうな。そして、そのひとたちは、映画「中学生円山」で言うところの「考えない大人」の代表だ。

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「紅白」は忘れるための「まつり」(2ちゃんねる的な)。つまり、いけにえだった。だから残酷に見えたんだな。

(2014.2.1)

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