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『大豆田とわ子と三人の元夫』に宛てた書きかけの手紙。

「大豆田とわ子と三人の元夫」


わたしたちは、自分の人生をより佳いものにしたいと願っています。その具体的な実現に向けて努力するひとは努力します。生活を変えたり、自己を磨くための方法を模索したりもします。もちろん、それは素晴らしいことです。

しかし、そうしなくてもいいのではないか。してもいいし、しなくてもいいのだ。そんなふうに「大豆田とわ子と三人の元夫」という作品は言っているような気がします。

わたしたちには、生まれながらに有している素地があります。その素地は、人生の経験値によって、多少鍛えられ、いい感じの風合いにもなりますが、そのことは大きなことではなく、人それぞれ素地は違うということ、これは如何ともしがたい。

とわ子には、とわ子の素地がある。
かごめには、かごめの素地がある。
八作には、八作の素地が。
鹿太郎には、鹿太郎の素地が。
しんしんには、しんしんの素地がある。

その素地は、そのひとだけのものであり、わたしたちは結局のところ、自分自身の素地と付き合っていくしかない。

おそらく、このことを、このドラマは「ひとりで生きていけるか」という問いに託しているし、この設問もまた、それぞれの素地によって、受けとめ方は違うでしょう。

素地は、意識と無意識によって形成されており、その配分がキャラクターの個性にもなる。八作はまさに「無意識過剰」。では、とわ子は?

母親のことが、彼女の意識をかなりの部分かたちづくっていることは間違いありません。しかし、意識化できていないものにこそ、大豆田とわ子の本質は、おそらくある。それが、松たか子がときおり表現する「、」としての、非常にマジカルな表情です。

わたしたちの内部に眠る無意識を、たとえば「手品」と呼んでみたら。

もっと、肯定的に生きられるような気がするのです。

(未完)

2021.11.19

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