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シン平野紫耀論

平野紫耀とは、テクスチャの集合体である。

エゴマのジェラートと、紅はるかの焼きいも、燻製部分のないいぶりがっこの三品でクレープを作るような。ひらめきと、確信と、慎重さと、やわらぎが、一緒に声を出すような心配りで、彼の表現はコーディネートされている。

「【Let’s Dance】Life goes on-平野紫耀ver.-」という短いからこそ崇高な映像には、その美徳があますところなく開陳されており、あまりの呆気なさに、文字通り呆然とするしかない。

このシリーズは過去の楽曲でも撮影されているにもかかわらず、画面に登場する平野紫耀は初々しいほどの緊張を、わたしたちに体感させる。

立ち位置を確認し、撮影しているスタッフに何かを語りかけたその唇を舐める仕草は、インナーの裾に手をやり正す行為で、さらに高まる。

両腕をひろげ、踊りはじめかけた矢先、それをやめて、すぐにお辞儀を二回する。

咄嗟のその動きが、彼のお辞儀の丁寧さを際立たせる。だが、これは狙いでも演出でもなく、偶発的にこぼれ落ちた人間性に他ならない。

つまり、完璧なスタートではなかった。にもかかわらず、いや、だからこそ、その後のダンスは夢のような時空を出現させることになる。

ドキュメントが、一瞬にして浮遊し、フィクションに転生する。しかもそれを、あくまでも低空飛行のままおこなうのが、平野紫耀である。

その腕は左右前後に振られ、リラックスした脚のステップが、ちいさなサークルを形成していく。

生まれたての小宇宙が、またたいている。

小鳥が囀る新鮮なときめきを、まるでまばたきのように明滅させる。

肩をウェーヴさせ、躰を回転させることで、時空が裏返る。しかし、大仰な素振りは微塵もなく、最小限のジャンプと、どこまでも透明なやわらかさをキープしたまま、無風から、そよ風を生み出す。

いきものとしての生命を誇示するのではなく、場にのびやかな酸素をおくりこむ。そして、自らは、ささやかな光となる。

平野紫耀は自然にとけこむのではなく、自らが自然と化すことで、この世界を、生き生きとさせる。

ときに重力に逆らいながら、ときに宙を彷徨いながら、地球の鼓動の継続を祝福する。

彼はあらゆる元素の集合体なのだ。

平野紫耀のダンスさえあれば、わたしたちは生きていける。この星で。

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