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なぜ、綾野剛を見つめることはこんなにも切ないのだろう。『カラオケ行こ!』

綾野剛は、人物の背景を探索したくなる芝居をする。

映画で描かれる物語の歴史より、そこに登場する人物の歴史のほうが長く厚みがあるに決まっている。だが、わたしたちはそれを忘れたふりをして、映画を観ている。

だが、綾野剛は、ふと立ち止まらせるのだ。

この人物は、どこからきたのか?
何があって、いまこうしているのか?
この物語に辿り着くまでの軌跡と道程に想いを馳せることになる。

『カラオケ行こ!』は、単純明快な世界である。
あるヤクザが、組の親分が主催するカラオケ大会出場のために、中学合唱部の部長に教えを請う。
ソプラノ美声の男子部長は声変わりに差しかかっており、そのことが静かに時間の有限性を物語る。
いろいろあるが、ヤクザは中学生に従順なまま、意外なかたちでカラオケ大会は終わる。

監督の山下敦弘は、『どんてん生活』にしろ、『天然コケッコー』にしろ、『もらとりあむタマ子』にしろ、たゆたう時の流れというものをおろそかにしない、極めて日本的な情緒を有している。そこには、雅なグラデーションがある。

本作でも期間限定の物語を、ごく自然に明るく朗らかに観る者の心象に浸透させ、健やかな余韻を授ける。

その余韻が今回は格別、深い。綾野剛の好演によるものである。

ヤクザ、成田狂児は自らを語ることがない。中学生に訊かれ、ヤクザになった経緯や、文字通り狂った名前が本名か否か、素直に答える。しかし、それ以上のことを吐露しないので、謎の人物のままである。

同業者の間でそれなりに人望があるらしいことはわかるし、自分が信頼する中学生の言うことは全て真に受けるようだということは理解できる。少なくとも、画面上では裏表のない男なのだ。

だが、綾野は中学生との会話に、ふとした沈黙を紛れ込ませ、わたしたちを密やかに動揺させる。沈思にも黙考にも感じられるその沈黙は、中学生を「そういえば、この人、ヤクザだったわ……」とビビらせるが、映画を観る者は、彼が語らぬ、作品も描写せぬ、この男の軌跡と道程が未だ空白のままであることに気づく。

綾野剛は、空白を空白のままにしながら、通り過ぎてしまう。何事もなかったかのように、会話は再スタートし、何事もなかったかのように、ふたりの時間は育まれ、しかし、ある時やおら、また沈黙が紛れ込んでくる。平然と。

そのホワイトノイズが、人物の彫りを深くすることを綾野剛は熟知している。だから、もちろん、なんの説明もしない。これを、永遠のループのように繰り返す。しかし、物事に永遠はない。

綾野の沈黙がどう優れているかといえば、ホワイトノイズが派生させる謎を愛おしく思わせるムードと所作を絶えず更新させている点にある。これは、本作が大阪弁で紡がれていることとも無縁ではないが、そもそも綾野剛という俳優が有しているチャームが謎めいていることも無関係ではない。

成田狂児を見ていると、この人物は、彼がわたしたちに感じさせる仄かな哀しみについて一生語ることはないだろう、という鈍い痛みがよぎる。それは、綾野剛がそのように演じているからであり、綾野の歩みをリアルタイムで追ってきた観客であれば、なぜ、この俳優を見つめることはこんなにも切ないのだろう、とあらためて考える契機になるだろう。

哀しみの背景にあるものも、痛みに至る道程も、切なさへの軌跡も、わたしたちはわからない。『カラオケ行こ!』は、明るく朗らかな映画だ。しかし、だからこそ、ここでの綾野剛は、これまでのどの映画よりも、哀しく、痛く、切ない。

ふっと終わる。

その余韻をまさぐっていると、微かに、成田狂児の前歴に触れられそうな気がする。

寸止めの遥か彼方で、綾野剛は芝居をしている。












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