見出し画像

コロナ以後、生活の質量。「きのう何食べた? season2」

「きのう何食べた?season2」は、season2というより、「正月スペシャル2020」のその後であり、さらに翌年の『劇場版』のアフターとして作られている。誠実にして切実なものづくりと呼ぶしかない。

よしながふみの原作漫画に最大限に敬意を表しつつ、西島秀俊と内野聖陽がリアライズする実写ならでは作劇とコーディネートを追求した良質な連続ドラマが最初に世に出たのは2019年春。まだ、コロナの影も形もない頃だった。

傑作「正月スペシャル2020」は元旦放映。まだコロナの猛威は顕在化していなかったが、確実に忍び寄っていた。そして2021年秋。あらゆるカルチャーがズタズタにされた後、映画として復活した。

中年同性愛カップルの同棲生活を、料理を愉しく作る人、歓んで食べる人という関係性を軸に、ポップに、しかし神妙に綴った「きのう何食べた?」は、多くの人の胸に刺さった。

これはBLではない。夢見る頃をとっくに過ぎた男たちが、それ以後の人生をいかに生きていくかを、食事時間という日々の営みを通して浮かび上がらせる物語だ。

以後、つまり「これから」を見据えた筆致は、スペシャルドラマ、映画を重ねるごとに深まっており、「season2」にはより鮮明に「私たちが今、どこにいるか」を直視している。

もちろん、コロナ以後であることには触れる。あくまでも世間話として。内野聖陽扮するケンジが美容師であることは重要だ。ようやく客が戻ってきた、という会話がある。飲食店もしかりだが、人と人とが公共の場で顔を合わせることが禁じられ、それを乗り越えようとすることには後ろめたさが伴う。それがコロナ禍だった。

外出がいけないことになった。外食をするのはいけないこと。文化を味わいに行くのはいけないこと。そんな世の中では、おしゃれもおろそかになる。ヘアスタイルを整え、美容師さんと他愛もないお話をする時間も失われた。その痛切を背後に仕舞い込み、ふたりは今日も暮らしている。生活している。生活とは、生きる活動のことだ。

西島秀俊演じるシロさんは節約派で、コロナ前から完全自炊型だ。外食は滅多にしないし、それならホームパーティのほうがまだいいというタイプ。つまり、アフターコロナな生き方をしてきた。今回の「season2」でもたまには外食も愉しみたいケンジとの間で、意見の相違があった。

だが、だからこそ、沁みる。

コロナ前から、コロナ禍と変わらぬ生活をしてきた男が、コロナのほとぼりがさめた後も同じように生きる活動をしている。仕事が終わったら真っ先にスーパーマーケットに行き食材を手に入れ、料理を作り、愛する人に食べてもらう。その暮らしは何も変わっていないはずなのに、コロナがもたらした空白の期間が、見えない影を落としている。

体重のことを気にはしているが、ケンジはいい意味で変わらない。内野も以前同様の演技アプローチをキープしている。だが、西島の芝居は変化した。変わらないようでいて、どこかが変わりつつあるシロさんの心情を、ドラマは西島のアップを多用しながら追いかける。

時の重みを見据えていると表現すればいいだろうか。暮らしのありようは、コロナ以前から変わっていないにもかかわらず、二人が規則正しく生活することの趣が変わった。その変化を、西島秀俊の顔は表現している。

根っからのインドア派であるシロさんの方が実はコロナのダメージを受けていて、この変わらぬ生活を維持することがどんなにかけがえのないことなのか、毎エピソードごと静かに深く痛感している。

普通ならアウトドアにも対応できる陽性のケンジが意気消沈していそうだが、沈着冷静なシロさんこそがコロナの影響をモロに喰らっている(だが、本人にはその自覚がない)。その様子と状態を、西島は精緻に、そして感動的に露わにしている。名実共に、この俳優の代表作と言えるのではないか。

連続ドラマは、映画にはない時間の重みを描くことができる。「きのう何食べた?」は連ドラではなく、歳時記ドラマである。季節の移り変わり、そして節目節目が日常の中に織り込まれていることを、30分の深夜枠で綴っていく。エピソードとエピソードの間には描かれない「さらなる日常」が存在し、この可視化されない「さらなる日常」もまたかけがえがないことを体感させる。映画は、ここまで日常に肉薄することができない。映画も時間をスキップすることは作劇上可能だが、クロニクル(年代記)になりがちだ。大抵の場合、映画は大きな出来事の連鎖を描き、ドラマは小さな日常の積み重ねを描く。

映画俳優として認識されている西島秀俊だが、彼の役者としての特性はこの歳時記ドラマでこそ活きるのかもしれないと初めて思った。監督の作家性を理解し、映画に奉仕し、生真面目に硬質な演技を捧げる「殉教」型の西島には「聖なる信者」の雰囲気があるが、その風情も相まって、無名の民が日常の一粒一粒を噛みしめている様には「敬虔」なムードが漂う。美しき地味さが、そこにはある。

シロさんが弁護士であるという設定も今回はとても効果的だ。同性愛カップルにとっては大きな、東京都内のパートナーシップについての言及もあった。そうしたリアルの導入もまた生臭くならず、かと言ってシビアにもなりすぎない懐を獲得しているのは、これが弁護士と美容師という現実と対峙せざるを得ない職業のふたりのドラマだからなのだと感じ入っている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?