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ギリギリをキラキラが抱擁する。tofubeats「 BABY」

tofubeats
「 BABY」  

かつてSMAPがそうだったようにtofubeatsは「時代心理」を作為なしに映し出すことができる音楽家である(だから彼がSMAP末期のいくつかの楽曲に関わったのは必然だった。期間限定ショップでの販売だったがSMAPの本当のラストシングルはtofubeatsの手になるものである)。
   メジャー通算3作目『FANTASY CLUB』のフィナーレを飾った「BABY」がシングルとしてリリースされた。前2作と較べてグッと内省的になったあのアルバムの中でもポップな肌ざわりのこの曲はある種の救いをもたらす余韻を約束していたが、アルバムの世界観から切り離されるとその微細な真価はより鮮明に浮かび上がる。
   自問自答を繰り返す生活だから、インタビューで難しいことを訊かれてもうまく応えられているかどうかわからない。たとえばそんなふうにミュージシャンの不安の吐露として受けとることのできる歌詞世界はしかし、個人的な呟きというよりは、わたしたちとその世界の普遍的なため息をトレースしている。「どこか遠くに行きたいけれど/なぜか行けないのさ」が次にリフレインされるときには「どこか遠くに行ったところで/動けないのさ」に変化している。わずかな沈黙とともにこぼれ落ちる密やかなこの本音こそ、21世紀を生きる者たちに通底する「低空飛行」の心もとなさであろう。tofubeatsはこの心象を、明るすぎす翳りすぎない、ゼリーのようなキラキラ加減のサウンドでそっと摘んでみせる。諦めというほど大仰なものではない。だが脱力のポーズを気どるほど余裕があるはずもない。ギリギリをキラキラが抱擁する。気張らないシリアス。威嚇なしのリアル。「君だけを見て/導かれ」と繰り返すサビは、解釈を緩やかに委ねながら、聴く者すべての暮らしと実感をささやかに肯定している。



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