いつまで拗ねているつもりなのだ
朝、母の朝食用のパンを買って帰ってきた途端、衝動的にパンの入った袋をキッチンに投げつけてしまった。焼きたてのパンたちは有料レジ袋に入ったまま壁にぶつかり、静かに床に崩れ落ちた。
袋の中のパンが無事なことはわかっている。今日買ってきたのはプラスチックパックに入ったミックスサンド、ホットドッグ、レーズンくるみパン、バナナデニッシュ。多少の変形はあれど、どれもこの程度の衝撃で潰れるほどやわなパンではない。
私はわかっているのだ、この衝動の原因を。パンはまだそこそこあるのにわざわざ朝の忙しい時間にいつもと目先の違うパンを買いに行かされていることに腹が立っていて、じゃあきっぱり断ったらいいのに何となく断れなくて買いに行った自分が癪に障る。結局自分が選択したことに納得できていない、自分の行動に責任を取れていないのが悪いのだけれど、こんな自分でも消化し切れていない恥ずかしい感情、他の誰か言っても解ってもらえないし、そもそもこんなくだらないこと聞いてくれる人などいない。......逡巡する間もなく気づいたら柔らかなパンたちが詰められた袋は私の右手から離れ、弱々しい音を立てたあと台所の片隅にうずくまっていた。
私は普段、職場でも所属する合唱団でも穏やかであること、落ち着いていること、冷静でいることについて一定の評価を得ている、と勝手に思っている。だからこそ職場では喧嘩を吹っかけてくる患者さんの対応のお鉢は私に回って来てしまうし、合唱団では些細な齟齬から起こる小さなトラブルの間に入っては誤解を正すような、音楽性とは無縁な副団長を引き受けたりしている。
実際に私は子供のころからそんな人間だったように思う。怒るというができず、理不尽だとか悔しいとか思うときには泣きこそすれ、怒りという形で外側に表出することはいけないことだと思っていたし、実際のところどうすればそれをできるのかを知らなかった。万が一怒るすべを知っていたとしても、それがもとで嫌われるのが怖くて、やはり怒れなかっただろう。
今思い返せば最初の仕事でメンタルバランスを崩したのも前職で発作的に退職を言い出したのも、日々感じるストレスをうまく怒りに変えて表出することができなかったのが最大の原因であったように思う。
四十代も半ばを過ぎ、いつの間にか人生の折り返しもとうに超えてしまった。そう自覚するようになってようやく、もうそろそろそんなに色々我慢しなくていいんじゃねえか、そう思うようになってきた。お前はこれまで十分人を気遣ってやってきたよ、もっと自分の思うように我儘になってもいいんじゃない?そう思うってはみるものの、じゃあそれをどうやってやればいいのかわからない。
現在の仕事は常にダブルチェック体制を組んでいるため、仕事は各自すべて別のスタッフの監査を通す必要がある。喫緊ではない仕事に没頭して監査に回ろうとしない年長のスタッフに、わざわざ声を掛けてチェックさせるのが面倒でつい、シングルチェックで済ませることがある。そうやって腹を立てるくらいなら声をかけた方がいいのは重々承知しているのだが、既に注意していることを何度も言うのに気が引けて言えないでいる小心者の自分にまた腹が立つ。
合唱団で皆に仕事を割り振る時もバシバシと投げることもできず、気持ちよくやってもらおうという気遣いが先に立って結局お願いベースで物事を進めてしまう。別に謝らなくてもいいのになんでこんなに下手に出ちゃうんだろう。要は友人たちには嫌われたくないだけの臆病者なのだ。
その裏返しなのだろうか、一歩外に出て見知らぬ人からサービスを受ける立場に立つと、途端に寛容さを失ってしまう。以前なら外出先で店員さんの不遜や怠慢を見つけてしまっても、まあそんなこともあるよ仕方ないよねーなんて思えていたのに、いつの間にか自分ならこんな接遇はしないしあんな対応プロとして恥ずかしい、そんな風に要求水準がインフレーションしている自分に気づく。ちょっとした勘違いや誰もが起こしがちなミステイクに対してまで目くじらを立てることはしないけれど、「尊重されていない」「軽んじられている」という感情には敏感に反応し、面と向かって嫌味のようなことを投げかけてしまうことも少なくない。
これまでの人生舐められるということに対して無自覚であったし、別にそんなこと大したことではないよ勝手にさせておけばいいと気にもしなかったが、ようやく最近になって、それって大事なことではないかと思うようになった。理不尽な不利益を被らないために自分の尊厳を守るためにはどうすればよいか。こんな扱いを受けたらこう返せばいいのではとシミュレーションするも、四十数年動かしたことのない筋肉はそうは簡単に動いてくれない。だから自分では筋が通っているつもりでも、周りからは唐突で極端な行動に見えてしまう。
私の働く薬局に来る患者さんのうち、理不尽な問題行動を起こしてしまう大半が壮年以上の男性だ。持参した処方箋を無言でそっとカウンターの端に置いてすぐに気づかないと怒鳴ったり、アンケートの内容ひとつひとつに難癖をつけ、書き終わってもスタッフが取りに伺うまでその場を動かない。皆、思っているより自らを過小に扱われることには我慢できないし、最初から最後までマンツーマンでケアされたいのだ。
私にはついついその気持ちがわかってしまう。自分がまさにそのような人間になりつつあるから。投げるようにカウンターにボールペンを放り出す初老の男性も、読み書きに不自由ないのに全てのアンケートを聴き取りさせるおじいさんも、もしかするとある時期までは良き市民としてにこやかに生きてきていたのではないだろうか。でも長く生きていくうち、どこかでそうやって生きていくことが報われないことを知って拗ねてしまった。
拗ね続けることで気分よく暮らせるなら私もきっとそうするだろう。でも彼らは押しなべて皆寂しそうだ。「腹が立つ」「寂しい」という、甘えだ我儘だと言われ表に出すことを憚られてしまう感情をあるがままに表現してしまっても、それが健やかなものとして受け入れられる空気が醸成される日がいつか来ないだろうか。
拗ねるではなくこうしてほしいと素直に頼めない、多少面倒なことでも頼られてしまうとつい断れずに引き受けちゃう私を含む中高年の男性たち。これまでは自力で何とか解決したふりをしたり、感謝されたということで自分を納得させては帳尻を合わせてきた。でも歳を重ねるにつれて自分でできることの範囲は狭くなるし、何をするにも人に頭を下げてばかりいるのは正直しんどいなと私自身感じ始めている。頭を下げるのが恥ずかしいわけじゃないけれど、これまで何の苦も無く自力でできていたことをいちいち人にお願いするのは気が引ける。普段お願いし慣れてない人間にとって人に頼るということはハードルが高い。他人に依存してはいけない、自分が引き受けた仕事を他人に振るのは無責任、何事もまずは一人でやり抜いてみる経験が必要……少なくとも私は上の年代の人たちからそんな教えを受けてその空気の下生きてきた。だからわかっていても、こうしてほしいなと素直に甘えてみるなんてやり慣れていないこと、急にはできない。
怒りを暴発してしまうこともきっと同じで、おかしいと思ったら然るべき段取りを踏んで、感情に流されずに問題を整理して抗議するべきで、これをさぼって相手のいないところで悪態をついては溜飲を下げることで気持ちのバランスを取っている場合ではない。でも歳をとるに従いそんな愚痴を聞いてくれる人もなくなるし感情の抑制が難しくなってくる。私のようにもう歳だしいい加減好き勝手していいか、って開き直った結果暴走老人と揶揄されるようなキレかたをしてしまうようになった人もいるのではないだろうか。
思った以上に折れ曲がってしまったバナナデニッシュは変わらず美味しかった。さっき投げてしまったことさえ忘れてもぐもぐしながら、先日からひとりで憤慨していた勤務先の労務規定の一方的な変更について、関連法規を下調べをした上で要望を伝え腹に落ちる結果に落とし込まなくては、と考えていた。恥を忍んで労務関係に詳しい知人にメッセンジャーを送ってみることにする。
「実は最近すごい困ってることがありまして。すいませんFさん良ければ力貸してください!」
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