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手をつないで

 その日私は、彼氏と明石で玉子焼き(明石焼き)の有名なお店に来ていた。左利きの彼がオーダー用紙に記入するのを見て、ふと昔のことを思い出した。

 江國香織の小説にいた、彼氏と手をつないだまま食事ができるよう、左手でごはんを食べる練習をする女の子。江國香織らしい何とも独特で浮世離れした世界観に笑ってしまったけれど、現実世界の私にとっては恋人と手をつなぐということはもっと現実離れしたできごとだった。

 あの頃若いゲイは、いや若くないゲイだってみんな二丁目や堂山や木屋町のゲイバーでみんな言っていた。

 男と手を繋いで町を歩きたい。

 私を含め場末のゲイバーで管をまいていた連中の大半は、彼氏などとは無縁の輩であったから、このため息交じりの戯言は「男欲しい」の一言に集約されるものなのだけれど、それとは別に私たちは、人目を気にせず好きな人と手を繋いで街を歩ける日を夢見ていた。
 町でつがう男女たちは、睦み合う自分たちを見てほしくてわざわざ手を繋いでいるわけじゃない。ただちょっと無意識にその人の手ざわりを感じたいだけなのだ。私たちも本当はそうしたい。セクシャリティがバレること、好奇の目で見られること、そんなのいちいち考えず手を繋ぎたい。長く寄り添った夫婦が、着けていることも忘れるほど当たり前のペアリングの自然さで繋がっていたい。

 そんな夢見がちだった私も、恋人と呼べる人ができるようになった。デートも佳境を迎えた頃、人気のないところでそっと彼の掌に手を伸ばしてみた。けれど絶対にゲイばれしたくないと考えていた彼はたとえ人目がなくても外で手を繋がせてくれなかった。彼は過去に国政選挙に立候補していた。次の選挙ではもう少しで勝てると信じ、「他党やマスコミがスキャンダルを狙っているのであまり家に来てほしくない」と言われた時は、自分たちの関係が後ろ暗いものであるということを改めて突き付けられて、暗澹たる心持ちになった。それでも駅まで送る途中、わざと大通りを迂回させて誰もいない暗い夜道で手を繋いだりした。手を振り払われない、そんな当たり前のことがただ嬉しかった。

 明石城公園内のスタジアムから、練習を終えた女子野球の中高生たちが仲良さげにおしゃべりしながら出てきた。そういえば子どもの頃、私たちの世代では女の子同士手を繋いでトイレに行くことがよくあった。それに倣って私も男の友達と手をつないでみたりしたが、男同士だとオカマだホモだと言われてからかいの対象となった。
 あれから日本も少しずつ多様性を認め合う社会を目指すようになり、都市部でなら人目さえ気をつければ性別問わず静かに愛し合うことができるようになった。この私の独白もいつかは過去のものとなり、やがては人前で手すら繋げなかった時代のことなんか想像もつかない時代が来るのだろうか。

 歳をとってあらゆることに頓着しなくなった私は、今や男同士で手を繋いでるところ見られてでも別にいいか、と思えるようになった。職場や家族にカミングアウトこそしていないけれど、心持ちとしてはしているのと似たようなものだ。羞恥心をどこかに置き忘れてきただけなのかもしれないけれど、悪いことしてないのだからと開き直っている。そこらへんの機微から手を放して以来ずいぶん生きやすくなった。ただ最近はガードがゆるくなりすぎて公衆の場で無自覚にゲイゲイしい話をしてしまっていることもあり、目下のパートナーには他人をアウティングに巻き込まわないよう叱られるのだけれど。

 現在のパートナーは屋外でも手をつなぐことに寛容だ。さすがに明るい街中で日中手をつなぐことは憚られるけれど、この公園のようにだだっ広くて人気のない場所では手を伸ばせば躊躇わず手を握ってくれる。手を繋ぐと安心する。温もりが伝わるスキンシップ効果というよりも、私が手を伸ばし彼がそれを受け入れてくれる、という一連の流れに安堵する。実のところ私たちは何ひとつわかり合えてなどいないのではないかと思う時もあるが、二人の手が違和感なく繋がってそのまま歩き続ける間、その疑念は一時的に打ち消される。手を繋ぐことで後ろめたさから解放されるなんてずいぶん安い贖宥状だが、パートナーシップなんてそんなものではないだろうか。
 池のある大きな公園をひとりふたり、知らない人とすれ違っても手を繋いだまま、静かな住宅地を横切る坂道を通って天文台に向かう。風が冷たくなって、彼の指も少し冷えている。雲行きが少し怪しい。

 大昔、台所用洗剤のCMで「♪チャーミーグリーンを使うと~手を繋ぎたくなる~」と老夫婦が住宅街の坂道で手を繋いで踊るCMがあった。歳をとってもこんなかわいい夫婦でいたい、と思わせる昭和のCM。しわしわで穏やかなかわいいおばあちゃんとおじいちゃん。加齢に伴い老夫婦は押しなべてかわいい、という評価に変わる分岐点があるようだけれど、男二人連れではなかなかそうもならないよね。
 ドラマ「きのう何食べた?」では五十代半ばのゲイカップルが登場した。年相応に老けた薄毛で小太りの二人を老練の役者さんが演じておられ、それはまさに実在する壮年の同性カップルのようであった。人目を気にしながら弁護士である主人公宅を訪れた二人が、会食後老後の財産について法的な依頼を行う間、彼らの利き手が逆かどうかはわからないけれど、二人は食卓に横並びで静かに手を握り合っていた。静粛な場面であったこともあるが、可愛らしいとか微笑ましいとかそういうものとは対極にある風景。正直なところこのドラマにリアリティは感じていなかったが、端役の初老の男たちが都会に紛れて共に静かに生きている姿は胸に迫るものがあった。
 男同士であっても、かわいいとか憧れの対象となる老人二人の暮らし方ってあるんだろうか。洗剤のCM放映が終了して30年以上経つけれど、手を繋いで外で寄り添い歩く、そんな老夫婦を見かけることは少ない気がする。彼らもまた、人目のないところで静かに手を取り合って生きているのだろうか。

 プラネタリウムではほとんど寝てしまった。天文台を出て子午線から離れると細かい雨が降りはじめた。駅が近くになるにつれ人が増え、みな傘をさして家路を急いでいる。私たちは傘もささずに手を繋いだまま歩いた。私たちのことを気に留める人はいなかった。つないだ手をつたって雨のしずくがこぼれ落ちた。

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