見出し画像

西方浄土の還り道

父と祖母の七回忌で、東京から西へ。
姉達と母と、女4人で黒服に身を包んで一路、姫の路。

法事が、好きだ。
叔父たち。従兄弟たち。従兄弟の子たち。
会えて嬉しい人たちがいる。愛おしい人たちがいる。
叔父、顔をしわくちゃにして笑う顔、変わってない。
あぁ、父と瓜二つで、父に会いに来た、と思う。

私はこの人達が愛おしいんだ、と思った。
口下手であまり話さない遠縁の親戚、けれどいつも顔を見せてくれるご夫妻。

愛しさを深めてゆくこと。そして、離れることを、いつでも覚悟していること。離れても、大丈夫だと、こみ上げるものありながらも、こころの奥底では知っていること。

優しい人達に囲まれていた。父が亡くなった時に、こんなに慕って集ってくれたのかと嬉しかった。人が一人、亡くなることで、その有緣の人々が西から東から一挙に集う。その人が皆を集めて、繋げてくれる。そして、そうした人々に囲まれていたその人が、父であったこと、祖母であったこと、自分が濃い緣をいただいた人だったと自覚できることに、誇らしさが湧く。
肉体としていなくなったその人の笑う顔と、肉体を持っている私たちが一同に会することができる喜び。なくなるごとに、存在感が増す。

なくなるとは。わたし達の総量として、喜びが倍増することなのかもしれない。
肉体を離れたなら、もうこの世での四苦八苦は経験せずともいい、全くもって安心して楽になれる身。
次の生まれ変わりへの準備をゆったりと進めるか、もしくは、今まだこの世に残っている肉親たちに一部寄り添って、微笑みながら幸せを願い、見守るか。
何にせよ嬉しいことしかない。

無量寿経を聞いて、
あぁこの経は、無条件の愛を表象していたのかと、思い当たる。

読経の後、すぐに次の場所へ出なければならず、4年ぶりの親戚たちと会話をする暇もなかった。でも顔を見れただけでもお互いに嬉しかった。

女4人で、何度もタクシーに乗りながら、わいわいと昔の記憶の景色と今の景色を重ね合わせ。

墓参りが終わった後に、駅の百貨店で、子どもの頃によく連れてきてもらった喫茶店へ行く。子ども用に用意された椅子も記憶と変わっていない。
子どもの時に大切だった景色、味、わくわくしてあの椅子に座る気持ちが、まだここにあった。子ども心に、夢のように大切で、弾けるようなときめきだったもの。それがまだ変わらずにそこにあった。わたし達を待ってくれていた? 身体歓ぶ、懐かしさと驚き。ここのワッフルが一等好きだった、母親に買い物に連れてきてもらい、ここでワッフルを食べるのがとっておきの贅沢だった。姉達も、母も、この場所にそれぞれに思い出があった。

こうして家族4人でここを辿ることは恐らくもうないだろう。いつも移動する時に一緒にいる姉の旦那さん達も、子どもたちもここにいない、完全に子ども時代の私達に還る旅だった。そこに、数十年前の私達の父も祖母も一緒だった。

瞬間瞬間、二度とない瞬間を生きている。
嫌な思い出もあったが、と
笑いながら4人で記憶を辿って歩き回る。
今という時間に、何層にも重なる過去を通して、愛おしさがまた増す。

こうして、私達が無数に愛おしまれていた証拠がどんどんと今この瞬間に手繰り寄せられる。
この景色に、母の母が、やはり小さい母の手を引いて、ほっと顔を緩ませてお茶をしていたのも見える。

携帯のバッテリもなかったので写真はほとんど撮らなかった。もう記録に遺す必要もなかったのかもしれない。胸の中で記憶を確かになぞり刻むなら。
今、という瞬間に全ての過去を重ねて、
今 今の味わいを深めたなら。

西方浄土から東へ帰る新幹線の中で、京都を過ぎた頃一枚だけ夕暮れの景色を撮った。
今度はいつ来るだろう、きっと、今しばらく。

その日母と2人で取ったホテル。いつも必ず禁煙にするはずが、自分の何の手違いだったか、着いてみると喫煙部屋だった。
部屋に沁みついたタバコの匂い。あぁこんなところまで、父が一緒の旅行だったからかと、腑に落ちる。

目に見えない存在と、ずっと共にいる。
『感謝』… 
全方位から、幾重にも幾重にも幾重にも、愛し抜かれていたことに伏し、歓喜湧く時にいずる思い。

"あなた達が、より今を安らかに生きることができるように" 存在達が優しく誘って、定期的にくれる贈り物なのかもしれない。こうして集う旅は。


(過去の法事の話)


読んでくださってありがとうございます。もしお気持ちが動いたら、サポートいただけると嬉しいです😊 いただいたサポートは、よりよい活動をしていくための学びに使わせていただきます。