『冠名』と『と』の話。

前回、蟻が糖杯という歌会の話を書きました。

メンバーの人も当たり前のように書いてましたが、そもそも『蟻が糖』って何?とお思いの方もいると思い出すます。

そこで、今日は蟻が糖について書きます。

我々の短歌ユニットは、定期的に歌会を行っています。その歌会には『蟻が糖杯』なんていう名前が必ずつきます。その名前は、前回の歌会で披露された歌のなかから話題になった一首からとるルールです。

蟻が糖杯の一つ前は「ディアンドル杯」という名前でした。
その歌会で僕は以下の3つで勝負しました!

『そんな貴女は散文的だ』
このそらに小さじいっぱいのハチミツを、
クラゲのようなのんきなアホ面
散らばった鏡の破片に映るよう、
思っていたよりも低い声
ボクたちは糖と蟻にはさまれて、
華綻ぶと夏。越えて夏。

はい。ありましたね。3首目ですね。

この歌は、『華綻ぶと夏。越えて夏。』という言葉の力のみで絶賛された作品です。

なんか綺麗ですよね。

やっぱ夏はいいよね。

華の綺麗な夏はいいですよね。

綻ぶという表現もいいですよね。

美しい日本語だと思います。

花が咲きかけることを綻びるとあてた最初の人はすごいですよね。きっと学生時代は国語の通知表で5しかとったことのない人なのでしょう。

前回も書きましたが、僕は夏が強いです。夏が好きです。僕の短歌は全部夏のことを言ってます。

んで、この短歌は糖と蟻にはさまれてる僕と貴女を謳いました。

〇〇とか、××とか、△△とか、全ての感謝の意味あいを込めての糖と蟻です。
そういうことです。わかりますね。


そして、歌会でこの歌の評価において指摘されたのは、『と』を入れた方がいいのでは?というものでした。

ボクたちは糖と蟻にはさまれて、
華綻ぶと夏。越えて夏。

ではなく、

ボクたちは糖と蟻とにはさまれて、
華綻ぶと夏。越えて夏。

の方がいいのでは?という指摘です。

皆さんどう思います?

確かにそこの句は字足らずです。

僕はあまり、字余りとか字足らずとか気にしないです。短歌を作るときは、指を折りながら作ってはいるけど、合わなきゃしゃーねぇーな。としか思いません。

その思いを以前、

字余りにビビってんじゃねぇよ!
藝術はもっと真っ白い広場だろうよ

という短歌にしたこともあります。

じゃないと、僕が尊敬する尾崎放哉の

咳をしても一人

という、無季自由律俳句が成り立たなくなってしまいます。これなんて、全く5・7・5じゃないからね。どんな数え方しても9音だからね。本来の半分だからね。分けるとしたら3・3・3だからね。どういうこと!?すごくない!?ロック過ぎるでしょ!?カミナリのネタでもまだ7・9・7だったよ!?しかも俳句なのに季語もねぇ!何も守ってねぇじゃん!

でも僕はこれぐらいが好きです。

もっともっと藝術は自由であるべきです。

藝術とは僕は卓球のエッジボールのようなものだと思っています。あの、台スレスレにかするやつです。急に軌道が変わってバウンドせず下に落ちてなかなか取ることができないやつです。でも、それは有効得点です。狙ってできるものではなかなかありませんが。やっぱ王道ど真ん中よりもこれまで誰もやってなかった藝術の世界でギリギリ認められるエッジボールを打ちたいものです。

まぁ、卓球ではエッジボールを打ってしまったら、「すいません」と謝るのがマナーのようです。
だから、ちゃんと僕はいいます。「すまん。めっちゃ字余りしたわー」とか、「短歌だけど詩になったわ、ごめん」とか。
きっと尾崎放哉も「俳句だけど、季語もねぇし、三・三・三になったわ。悪いな」とか言ってたと思います。


でも、今回は『と』をいれた方が良かったですね。

最初は別に変わらんくね!?と思いましたが、音も揃っていいということ以外にもありそうですよね。

そう思うようになったのは、

河東碧梧桐さんの

赤い椿白い椿と落ちにけり

という俳句を思い出したことからでした。
この「と」ヤバくね!?
この「と」の語りしもの多くね!?

これが、

赤い椿白い椿も落ちにけり

とか

赤い椿白い椿が落ちにけり

とか

赤い椿と白い椿落ちにけり

とかじゃ全然違うよね!!

まぁ、厳密に言うとこの「と」と僕の短歌の「と」は用法が違うけど、1字のパワーが大事なのは伝わるかと!

だから、ありとあらゆる全てを勘案してみると
「と」があった方がいいと思います。
ありとあらゆるは皆さんも考えてください。

以上、長くなりましたが今回は『冠名』と『と』の話でした。この短歌または先人の名作から学んだことです。

また、こういうの書ければいいな。

それでは、読んでくれて蟻が糖!バイバイ!