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ダーク・ボガードに大向こうを掛ける夜

 よく、子育て中の友達が嘆くことで共通するのが「こどもが同じ動画やテレビ番組を何度も何度も見るのが苦痛」という、あれだ。子育て中の、もしくはその経験のある人同士だと、そうだよね!あれほんと無理!という激しい同意のポイントになるようだ。まあ、実際に自分が興味ないもの、例えば頭が菓子パンのやつや、手持ちのモンスターを戦わせるやつなどを延々と見せられるのだろう。世の中のお母さんたちにとっては「こどもの繰り返し問題」は相当なストレスなのだろうと思う。
だが、わたしは、むしろ、こども側なのである。ただ単に「子育てをしていないからこども側だ」ということだけではない。わたしは、世のお母さんたちが悩む「繰り返し問題」を「やる側」でもあるため、一概にこどもを責められないのである。

 たとえば、歌舞伎や落語が好きで、同じ演目を繰り返し見る。これらの芸能は、元々そういう楽しみ方をする芸でもある。同じアニメを見るのとはもちろんわけが違うが、筋を知っている、展開を覚えている物語を繰り返し楽しむことは、何もこどもに限った楽しみ方ではない。むしろ、歌舞伎や文楽などは「あらすじを知った上で観る」ことによって、面白さが倍増する。そして、いろんな役者さんが繰り返し上演するのを観て、役者さんごとの個性を発見したりする楽しみがあるのだ。
 また、歌舞伎に特徴的なもののひとつに「大向こう」がある。観客が「松嶋屋!」「成田屋!」「待ってました!」と声をかける、あれである。大向こうは、本当は誰が掛けてもよいのだが、実際は大向こうさんの会があり、オフィシャルな大向こうさんは履歴書を3通用意し、歌舞伎座と役者さんたちの楽屋と株式会社松竹に提出し「人品卑しからず」と判断されてはじめて、劇場フリーパスがもらえるのだそうだ。(ただし立ち見)
 その、歌舞伎になくてはならない大向こうこそ、どんな場面で誰が何を言うか、どのタイミングで花道から誰が出てくるか、すべて知っていないと掛けられない。しかも、いい大向こうさんがいると、役者さんも生き生きするし、劇場内の一体感も一入となる。
 そう考えると、歌舞伎は改めて特殊な芸能である。シェイクスピア劇で名台詞を言う直前のハムレットに「待ってました!」と言うとか、クラシックバレエのダンサーに「ガニオっ!」と大向こうをかけるとか、考えただけでぞっとするではないか。
同じ演目を繰り返し楽しみ、舞台と観客が一体になるのは、日本の伝統芸能特有の楽しみ方なのかもしれない。そう考えれば、こどもの繰り返し問題もすこし文化的に感じられる気もする。

 ただ、わたしの繰り返し問題は、歌舞伎に限ったことではないのがいささか問題だ。たとえば、好きな映画も、何度も観る。わたしはウディ・アレン監督の映画『アニー・ホール』が大好きだ。近頃では彼を嫌う女性は多いけれど、わたしは彼の映画が大好きである。普通の人が「嘘でしょ?」と思うぐらい繰り返し見てしまうので、最近はなんとなく、なるべく観ない工夫をしているほどである。同じぐらいの視聴率を誇るのは他に、ルキノ・ヴィスコンティ監督の『ベニスに死す』、カルト映画と名高い『ロッキー・ホラー・ショー』、そしてロバート・デ・ニーロ主演の『ディア・ハンター』あたりだろうか。ちなみに、『アニー・ホール』は黙って観るが、「ベニスに死す」は、一人で観ている時は、疫病禍のベニスで美少年を追いかける老作曲家役のダーク・ボガードの一世一代の顔芸に対して、オリジナルの大向こうをかける。誰にも聞かせたくないが、我ながら、間が秀逸である。
なぜこんなに同じ映画を何度も観るのか?
それは、面白いからである。そう言ってしまうと身も蓋もないが、実際に面白いのだから仕方がない。だがここで、もう少し、みなさんに理解していただけるように説明をするとすれば、それは、かつて桂枝雀師匠が唱えた「緊張の緩和」の理論に近いものがあると言える。そこには、「さあ、あれが来る。あれが来るぞ!」という緊張(期待)と、「来た!わたしが待っていたのはこれなのだ!」という、緊張を解かれ、期待が思い通りに具現化された快感があるのだ。

 また、この楽しみ方は、時代的に「家で映画を繰り返し観ることが出来るようになった頃」に、映画を観始めたということが大きいのではないかとも思う。小学校高学年ごろから、近所のレンタルビデオ屋さんで名画を借りては繰り返し観ていた。吉田戦車の名作まんが『伝染るんです』に、いつも『白鯨』のビデオを借りてくるお父さんの話がある。「お母さん!お父さんがまた白鯨を借りてきた!」「・・いいじゃないか」というような4コマだ。わたしには、このお父さんのことを笑う資格はない。
 中学生になって、映画館に出入りするようになったが、当時の映画館は途中入場も途中退場も自由、入れ替えなし、二本立てや三本立てが当たり前だったので、新作を2回見たりすることもよくあった。高校受験の前日に映画を観に行き、母にこっぴどく叱られたことを思い出す。当時のわたしには受験より封切が大事だったのだろう。

さて、他にもありあまる大人に叱られた事例についての報告はまたの機会に譲るが、全体的に「生真面目とすら言えるほどに懲りない、不真面目な選択」をし続けた結果として、今日ここにいる自分が出来上がっているのだ。そう、わたしはそういうやつだ。繰り返し問題は、伝統芸能や映画鑑賞だけではないのだ。

特に改悛もない。

今夜あたり、『ベニスに死す』を観ようかと思う。
 

(写真は、2018年にイタリアに行った際、『ベニスに死す』のロケ地巡りをした時のもの。リド島に渡る船の上で、ひとりダーク・ボガードの顔真似をした。)

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