麻生三郎によるポスト臨死

2023/6/18 世田谷美術館「麻生三郎展 三軒茶屋の頃、そしてベン・シャーン」

 麻生三郎(1913~2000)の絵を追っていると、戦後すぐ1948年頃の画風は明確にシャガールとルオーの影響が感じられ、やがてクレーやフォーヴィズムや表現主義全般、そしてアンフォルメル・抽象表現主義の技法を習得するが中心にあるものは驚くほど変わらない。人間、環世界(Umwelt)の中のそれ、モノとして、生きているモノとしての現存在、それから元現存在というあり方。その身体から放たれるのは意思であり無言の言語であり、驚くべきことにそれは屍体となっていても変わらず抵抗の矢を振り絞ったまま永遠に静止しているように見える。

「女」「子供」「母子」1940年代のモチーフは身近なものであり、未だ戦中であるかのように恐ろしい暗さの中で、存在していることの根本的な喜びを感じさせる。1950年代からタイトルは「人」「裸」「赤い空」とひとつ一般化されたものとなる。恐ろしい暗さよりもヴェーベルンのように熟れた末期の赤さと輪郭を失いつつある風景の強烈さ。40年代の赤は瓦礫の夕焼けの色でもあり血肉の色でもあった。しかし50年代の赤は崩壊と死の予感で埋め尽くされいる。空の色が肉体を存在させている。展覧会の章として「赤い空」と付されているのに納得できる。それほどに赤く、不安が込み上げる。
後年、独特に線が絡まるデッサンの類は、この時代のものはまだ端正な輪郭を保っている。立体作品はジャコメッティやピカソのそれを思わせ、同時に麻生らしい生き物=存在の抵抗を感じさせるがやはり色がなくてはこの芸術家の真の技とは言えないように思う。

 そして、ついに「死者」がやってくる。本当に死体の色をして、千切れた「カラダ」があまりにも饒舌に何かを伝え始める。赤はまだ生命という理念の夕焼けの色が闇のように濃くなっただけであることがわかる。無言になった死体の言語は物理法則を超えて無限を現前させる。かつてハイデガーに学んだハンナ・アレントは文化の中に二つの理念的な極があると言った。永遠と無限、永遠性は循環に無限性は石として実現の場を見出すが、これはいわば存在者の中でも現存在についての言明である(思えばこの師弟はどちらも「せっかく生きてるんだから頑張ろう」というポジティブな思想だった)。死者は永遠でありかつ無限であると言えよう。

 その色は腐肉の緑、視界の沈んだ灰白色の世界に骨の白、感情の失せた草の青、痕跡としての僅かな赤、痕跡を消す黒。アルチュール・ランボーばりの記号の錬金術。淡いグラデーションの中に、死者を通じて「死」が実体化する。ヨーロッパ中世の判じ絵であればただ骸骨が踊ったり王冠を被ったりしたであろう「死」の表現。死者をもって語らせることにより見るものを脅かす。あまりにも生々しく。
それらの死の色彩が始まった作品《仰向けの人》《燃える人》、それぞれ社会的な事件を元にしている。学生闘争の中で死んだ女学生、宗教迫害に抵抗して自らに火を放った僧侶。それらの事件はショッキングであるが、今見る人にはその絵の方が恐ろしい。《胴体と頭と電球》《頭と胴体3個》、一見してそうと分からないがタイトルの通り確かに「ある」。これらの絵は抽象画としてかなり完成されている。形態への意思は作者の手元と読者のそれぞれで、絵画を通してしか共有されない。50年代の崩壊した風景の全てが、画布の偶然の傷にも見える形象の内に響いているかのようであり、デカルコマニーのような滲みの泡は生き物の気配に通じる。これらの統一を、分子的な観点で言えばバラバラになった生であるかのような死が、それを司るという奇怪。そして遊星の大地の不可思議な光景からふと頭部がこちらを見ているのが分かると、ただ単に恐ろしい。その恐れは、自分が無関心な者が死んだとき、その死が実は自分が関わっていたのだという感覚。この画家の社会的メッセージとして、抽象画を通してそれは不思議なほど正しく表現されている。

 椎名麟三の中央公論の文学全集への挿絵、野間宏や福永武彦、ソルジェニーツィンの本の表紙絵。まさに昭和、まさに戦後。エピソード的なことは置いておき、あまりのコテコテ感に少し笑ってしまう。輻輳したデッサンは、近代的な線分的な、そして自己意識に絡まった人間像を表すのに適切なようで戦後の文学系の挿絵は、共通認識のように震える描線が現れる。江戸時代の宇宙船のような座敷がモードであったように、今見るとひとつの文化的なものであるらしい。
 ベン・シャーンについては今回の展覧会では語るほどのことはないように思う。麻生がコレクションしていたというのがどうした意図なのか考えるのが面白い。社会派という大雑把すぎて何にもならない括りではそうであるが、それは何も説明にならない。シャーンの『マルテの手記』の連作は、この著名な煤煙じみた作品とはあまりにもかけ離れているように見えるが、しかしシャーンはリルケの世界を自分の住む時間に置き換えたのだろうと思われる。自分にないもの、クリティクに際し端正であることの美術家としての礼儀正したのようなものに惹かれたのではないかと想像する。

 用賀という地域は世田谷区でも牧歌的な雰囲気がある。無造作に紫陽花が土を消費し石畳には新古今の和歌が穿たれている。琵琶の実が無関心な顔でぶら下がり、いくつかの名を知らぬ街路樹。世田谷美術館のある砧公園は針葉樹林の林の中に小広場がいくつもコロニー的に点在するような素朴な構造であるが、しかし、けっこう広い。一周したら少し疲れる。肉体の全てを揺籃に沈める王侯たる赤子も永遠に近い眼差しの老婆もライトセーバーを振り回す不思議な欧米人も等しくこの広場の上をゆく。二子玉川の方面に少し行くと運動公園があり若者の姿が通り過ぎる。環八を越えると起伏が激しくもはや山越えの趣となる。夕日が迫ってくるのが恐ろしい。日々よあれ。問答無用に日常が広がるのだがそこに住まない人間にとっては驚くべき非日常で、どこにいるのか全くわからなくなる。公園の松葉の影にはてらてらといやらしい若い種子が監視カメラのように下界を見ている。世田谷美術館、良い場所にあると言えよう。


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