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今日の1枚:ベンジャミン・ブリテン《春の交響曲》他(ラトル指揮)

ブリテン:
シンフォニア・ダ・レクィエム Op.20
春の交響曲
青少年のための管弦楽入門
LSO Live, LSO0830
サイモン・ラトル指揮ロンドン交響楽団
エリザベス・ワッツ(ソプラノ)
アリス・クート(メゾ・ソプラノ)
アラン・クレイトン(テノール)
ティフィン少年合唱団、ティフィン児童合唱団、ティフィン女学生合唱団(指揮:ジェイムス・デイ)
ロンドン交響楽団合唱団(指揮:サイモン・ハルジー)
録音時期:2019年5月7,8日、2018年9月16,18日、2021年5月18日


Rattle conducts Britten

 春をテーマにしたクラシック音楽というと、例えばヴィヴァルディの《四季》第1曲《春》とか、ロベルト・シューマンの交響曲第1番《春》とか、あるいはヨハン・シュトラウス2世の《春の声》などを思い浮かべる向きは多いことでしょう。それらに比べると、ベンジャミン・ブリテンの《春の交響曲》はお世辞にも有名な曲とは言い難い。そもそもブリテンが日本では《青少年のための管弦楽入門》を始めとするごく一部の曲しか知られていない上に、大規模で技巧的にもたいへんな管弦楽と合唱、児童合唱、独唱3人を要する作品ということで、演奏・録音機会にも決して恵まれていない曲ですから、知名度が低いのも仕方がありません。セルゲイ・クーセヴィツキーの委嘱によって1948年から翌年にかけて書かれた《春の交響曲》は、交響曲というタイトル通り全体は「序奏と主部」「緩徐楽章」「スケルツォ楽章」「終楽章」という4楽章を模した構成になっていますが、終楽章を除いてそれぞれはさらに細かく分かれていて、全15章を数えます。それぞれにテクストは16世紀の作者不詳の詩からスペンサー、ミルトンといった古典、さらにはウィリアム・ブレイクを経てブリテンの友人であるW・H・オーデンに至るという歴史的に幅広い詩人たちから採られており、1章にひとつないし複数の詩が用いられています。そして、それぞれのテクストの気分を明快に喚起するために、各章はオブリガートのソロ楽器やアンサンブルを含む、各々実に個性的な色彩によって彩られている。そう、《春の交響曲》は、私の偏愛する同じブリテンの歌曲《夜想曲》を大編成に拡大したかのような体裁を持つ作品なのです。いえ、時系列的に言えば《夜想曲》の方が10年近く後の作品ですから、《春の交響曲》のコンセプトを圧縮したものが《夜想曲》になったと言うべきかもしれません。
 第1章「輝け」で冬を追い払う春の陽の光を希求して始まる《春の交響曲》は、第2章「陽気なカッコウ」ではテノール独唱を、カッコウの鳴き声に見立てた3本のトランペットが伴奏し、第3章「春よ、甘き春よ」は独唱、合唱と管弦楽による舞曲、第4章「馬車に乗る少年」では児童合唱が口笛を吹き、第5章「暁の星」では鐘の音が朝を告げる、というように、各曲の彩りは目くるめくばかりに変化していきますし、そのどれもが、ちょっとふつうでは思いつかないような、紋切り型から遠く離れた発想に基づいていて、それを追いかけるだけでも楽しい。(最終章「フィナーレ」には角笛まで登場します。)その中からやがて春の温かみや活力が伝わってくるのがこの作品の魅力です。
 ブリテンの作品ですから当然作曲者自身の録音もありますし、70年代にはアンドレ・プレヴィンの録音が話題となったこともありました。またジョン・エリオット・ガーディナーリチャード・ヒコックスといった、合唱畑で鳴らした指揮者の録音も知られています。このたびリリースされたラトル盤は、この指揮者らしい強弱の変化の切れ味のよさ、そこから生まれる活き活きとした運動性にだいいちの魅力があります。それと同時に、ラトルは各章の個性や色彩をきちんと押さえつつも、派手派手しい音楽にならないように気を配って、実のある演奏を繰り広げると言えます。喜びに満ちたワルツとなるフィナーレも、ドタドタとした足どりで盛り上げるだけ盛り上げる、ということはせずに、錯綜とした対位法の織物を丁寧に聴かせつつ、キビキビとした、それでいて落ち着いた音楽に仕上げている点に好感が持てます。独唱陣では、《夜想曲》の項で触れたアラン・クレイトンが、巧みな歌唱と瑞々しい声で一頭地を抜いた活躍をみせるのが聴きものです。
 併録はもはや紹介不要な《シンフォニア・ダ・レクイエム》と《青少年のための管弦楽入門》(ナレーションなし)。こういう曲では、天性のリズム感のよさや、切れのよい強弱の交替といったラトルの美点が見事にはまっています。まるでラトルという才能自体がブリテンの音楽を演奏するためにオーダーメイドされたみたい、と言ったら言い過ぎでしょうか。

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