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【小説】もうひとりの転校生 第13話

   第13話

 スマホから呼び出し音が響く。なんだか緊張してきた。そっと目を瞑り、唾液を飲み込む。

『よう、どうした。トラブルか』
 上司の呑気な声がして、少しホッとした。

「秋元さん、実は──」
 板野のことを話した。スイムスーツが盗まれそうになったこともすべて。上司は黙ったまま最後まで聞き終えると、

『そうか……』
 電話の向こうでため息をついた。

『確かに、あれは後味の悪い事件だった』
 苦々し気に言う上司に、

「なぜ彼だけが責任を取らされたんでしょうか」

 名古屋の支店長に事情を聞いた時からずっと不思議に思っていた。たとえ管理が甘かったとしても、盗難はアクシデントだ。悪いのは彼だけではないはずだ。

『当時の名古屋の支店長が、自分の経歴を傷つけられたとおかんむりでな。部下にすべて責任を押し付けて、自分は栄転だ』

 その口調から、上司がその人物をあまり良く思っていないことがわかる。

「彼を……板野を復職させてやれないでしょうか」

 俺の言葉に、上司はさっきよりも深いため息をついた。

『それはできない』

「どうしてですか」

 間髪を入れずに尋ねる。上司の口調が重くなった。

『名目上は、板野が辞表を出したことになっている。つまり、自ら辞めたんだ。そんなあいつを再び雇い入れるのはもっと難しい。その上また、彼はこんな事件を起こした』

「そこまで追い詰めたのはこちらじゃないですか」
 語尾をひったくって言った。上司が言葉に詰まる。

「このことが明るみになれば、彼はますますどこにも雇ってもらえない。それでいいんですか。一人の社員を破滅させて、人生を狂わせていいんですか」

 もし彼がこの先の人生を取り戻すことができなかったら。死んだように生きていくしかないとしたら。

『それはあいつの問題だ』
 上司が「あいつ」を強調する。

「腐るのも、立ち直るのも、あいつの人生だ。あいつが決めることだ」

「それなら」
 俺はスマホを手に、顔を上げた。何百キロも離れた上司に向かって背筋を伸ばす。

「チャンスを与えてやることはできませんか。彼は多分、うちの会社で仕事することが好きだったんです。今日こんなことをしたのも、未練があったから。恨みもあったかもしれないけど、でも……」

 相手を傷つける、行き過ぎた言動。決して正しくはない。けれども、そんな風にしか伝えられない気持ちがある。

 沈黙の後、上司はさっきよりも優しい口調になると、

『二年前のことは、あいつにまったく問題がなかったわけじゃなかった。俺が引っかかってるのは、一人だけに押しつけたことだ。あいつが自分のしたことに責任を取るのは、当然のことだ』

 肩がずきんと疼いた。さっき板野に蹴られたところだ。俺は片方の手で痛みに触れると、

「秋元さん……」
 息を吐き出した。止めようもなく、言葉が勝手に出てくる。

「俺は今日、彼と同じことになるところでした。回避できたのは偶然です」


 血走った目で走り去ろうとする板野の姿を目にした時、彼との間にはかなりの距離があった。あのまま逃げられてもおかしくない。


「もし……あのままスイムスーツが盗まれていたとしたら、秋元さんは俺をクビにしますか」


 上司が電話の向こうで黙り込む。


「つながった俺の首をかけてお願いします。彼にもう一度だけ、チャンスを与えてやって下さい」


 言ってから気がついた。これは、俺じゃなくて同期の首だった。まあ、いいか。


『失敗した時に、失敗したことを考えるな』

 上司が呟いた。いつも俺たちに向かって口癖のように繰り返す言葉だ。

 ──失敗した時に、失敗したことを考えるな。

 失敗は誰にでもある。その後のフォローにベストを尽くせ。そう言って、いつも力強く俺たちを鼓舞してくれる。

『たとえスイムスーツが盗まれたとしても、お前だけをクビにすることは絶対にない』
 上司が力強く言った。そして、

『板野をクビにしたのは、会社の失敗かもしれないな』
 さばさばした口調でそう言った。返す言葉を探せないでいると、

『わかったよ』
 上司が苦笑いしながら言った。

『俺がなんとかする。社長にも言っておく』

「ありがとうございます!」
 俺はスマホを手にしたまま、真っ二つに腰を折った。いいんだ、相手に見えなくても。俺の気持ちなんだから。

『なあ、前田』
「はい」
『お前、変わったな』

 上司の声が変わった。俺ははっとしてスマホの画面に目をやる。

『大島の影響かな』

 え、俺?

 突然自分の名を呼ばれて驚いた。なんでここに俺が出てくるんだ。

『いい影響だよ』
 そこで電話が切れた。スマホをポケットに戻すと、いつの間にか名古屋の支店長が後ろに立っていた。

「ありがとうございます」
 深く頭を下げられた。そのまま土下座しそうな勢いの支店長を押し留める。

「彼のことは、わたしに任せて下さい」
 俺は頷いた。この人に任せておけば、きっと板野は大丈夫だ。

「板野くんは有能でした。けれども、人の気持ちを考えられなかった。仕事ができない相手には、人を人とも思わない態度を取ることもありました。辞めさせられたのは不当でも、彼の人生のしっぺ返しのようなものでした」

 ふと、瀬能はるかを『ただの役立たずだ』と一蹴した同期の言葉が蘇る。

「けれどあなたのような人に触れて、彼も変われると思います」
 支店長が再び、深く頭を下げた。

「いえ、俺なんかよりも、あなたが止めなければ、とっくに板野さんを警察に引き渡していたんですから」

 彼のために必死に頭を下げている。自分のことをこんなに心配してくれる人がいるのだということを、彼に知って欲しい。

 名古屋の支店長と笑い合った。寒い夜に焼酎のお湯割りを呑んだ時のように、じんわりと胸が熱くなる。

 少し、この空気に酔っ払ったのかもしれない。支店長が打ち明け話をするように声をひそめた。

「実は、失礼ながらこれまでのやりとりで、あなたと板野くんが似てるなと思っていたんですよ」

 目を瞠る。彼が囁くように笑った。

「けれども、実際にお会いして印象が変わりました。あなたは情に厚い、素晴らしい方だ」

 俺は返す言葉が思い浮かばず、苦笑いした。

『カンベンしてくれよ』

 という、同期のぼやきが聞こえてくるような気がした。

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