見出し画像

【短編小説】徒労の人 ~なぜ書くのか~ 第9話(最終回)

   第9話(最終回)

「愛馬センパイ、ちょっといいですかぁ……?」

 昼休み残り五分。パーテーションに囲まれた誰もいない会議室で、靴を脱ぎくつろいだ格好で本を読んでいると、後輩のリナが入ってきた。

「あー、お邪魔してごめんなさい、読書中でしたか」
「いや、別にいいよ。どうしたの」
 本を閉じて脇へ置いた。今度は一体、どんなミスをやらかしたっていうんでしょ。

「なに読んでるんですかぁ?」
 珍しくリナがそう言って、本の装丁に目を走らせる。

「『ディアトロフ峠の真相』? え、これって小説ですか?」
「いや、実際にあった話。ソ連時代に起こった雪山での山岳事故なんだけど、遺体の状態や不思議な痕跡から、色々な説が囁かれてて……」
「えー、なんか怖そう」
「最近、新田次郎の小説を読んでハマって、その流れでつい」
 って、話が横道にそれた。なんか話があるんじゃないの。

 リナは「んー」と言い淀み、もじもじと指を弄んでいる。なんなのよ。自分から声をかけてきておいて。

「実は……」
 え、なにか深刻なこと? でもリナの口元、笑っているように見える。まさか……。

「実はあたし、結婚するんです」
「えっ!?」
 思わず大きな声が出てしまった。リナが慌てて自分の口に指を当てる。

「ダメですよぉ。まだみんなには言ってないんですから」
「ごめんごめん」
 パーテーションの向こうに耳を澄ませた。ちょうどランチから戻ってきた人たちのざわめきが、静かだったフロアにさざなみのように広がる。

「会社に報告するのはこれからなの?」
 声をひそめて尋ねると、

「いえ、実はもう課長のところには、一緒に報告に行ったんです」
 口元を手で覆っても、彼女の目元からあふれる多幸感は隠せない。

「それで、あたしが部署を変わることになったので、みなさんに伝えるのはもうちょっと先なんですけど、その前に愛馬センパイにだけはお伝えしておかなくちゃって思って」
 一瞬目が点になったが、数秒遅れで意味がわかった。

「なるほど、相手は社内の人なの」
「あっ、そうです。あたしったら、それを言ってなかった」
 てへぺろ。漫画やアニメじゃなく、リアルで拝むのは初めてですわ。

 その瞬間、なんとなく嫌な予感がした。脳内でなにかが鳴っているのを感じながら、リナのツヤツヤの唇が嬉しそうに開くのを見守る。

「錦戸さんです」

 緊急の警報を作動させた自分を褒めたい。ほんの一秒でも心の準備ができたおかげで、わたしは内心の動揺を押し隠してこの場にふさわしい顔を作ることができた。

『今日は愛馬さんが来てくれてうれしいです。以前から一緒に呑みたいと思っていたんですよ』

 呑み会でのイケメンくんの笑顔が浮かぶ。

 そうか、そうだったのか。あの時はやたらと気を使ってくれるなと思ったら、彼女のための点数稼ぎか。

「課のみんなは優しいのにぃ、愛馬センパイが厳しくてぇ。あたし怖~い」

 とか、さては二人きりの時に言いつけてるんだな。ちくしょう。

『お酒、強いんですね』

 あの時のイケメンくんの顔。瞠った目をほころばせて、まるで「呑める女子は好きですよ」と称賛されたようで、なんだか気分よかったんだけどな。やっぱり男子は、カシオレとか呑んでるような可愛い女子が好きなんですね。

 なんだろう、この気持ち。妙にガッカリするような、寂しいような。

「それでぇ、春から部署が変わることになったので、愛馬センパイとお別れなんですぅ」
 リナの声で我に返った。グーにした両手を目の下で震わせている。おお、これまでで一番わざとらしい泣き真似でないの。

「これまでお世話になりましたぁ」
「いえいえ、こちらこそ色々とありがとう」

 次はもっと気の利かない若い後輩が来たらやだな。いや、逆に自分よりも仕事ができすぎる後輩が来たらもっといやかも。

 ああ、よくないね、こういう後ろ向きな気持ちは。意地でここまで引っ張っちゃったけど、そろそろこれを言わないと終わらない。

「おめでとう。どうぞ末永くお幸せにね」
 精いっぱいの笑顔で、心中とは正反対の言葉を贈ったら、

「ありがとうございます。愛馬センパイも、早くいい人が見つかるといいですね!」
 返す刀でバッサリ切られた。大きなお世話をありがとう。

 時計が始業時間を告げ、リナとわたしはそれぞれの席についた。誰にも見られていないのをそっと確認してから、パソコンの画面に向かって思いっきりしかめ面をしたら、なんだか可笑しくなってきた。

 リナのことも、イケメンくんのことも、全部わたしの肥やしになる。だってほら、さっき生じた心の揺れを、もうさっそくどこかの作品のネタに使おうと考えてる。

 仕事用のパソコンに密かに作ってある、創作用のファイルを開いた。ネタは新鮮なうちに、なるべく取りこぼさないことが肝要だ。

 大きく息を吸い込んでからぐっと止めると、わたしは流れの底に向かって深く潜っていった。

                               おわり

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?