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第1話 ねがわくば 花のもとにて 春死なん その如月の 望月のころ ※※※ 「せーの」を合図に、手にしたグラスを差し出した。 「メリークリスマス!」 四つのグラスと小さなカップが合わさる。勢いよく振り上げた武のグラスから液体が飛び散り、環が悲鳴をあげた。さくらが慌ててキッチンに布巾を取りにいく。 「ちょっと武! なにすんのよ! 見てよ、このワンピ!」 環が金切り声を上げながら武の背を平手で叩いた。大人のはしゃぐ様子に、オレンジジュースを飲んでいた操
第2話 年末から正月にかけて帰省した。実家までは車でほんの一時間ほどの距離で、両親とも健在だ。 親孝行のためと思って二泊したが、退屈すぎて三日目の午前には自分のマンションへ戻った。 エントランスのポストを開けると、輪ゴムにくくられた年賀状の束があった。 『あけましておめでとうございます』 エレベーターのボタンを押し、武とさくらと操の親子写真に目をやる。 『クリスマスパーティーでは本とおもちゃをありがとう。操はすごく気に入って毎日読んでいます』 さくらの
第3話 武から連絡があったのは春の初め。花冷えの頃だった。 「どうせヒマだろ? 今夜呑もうぜ」 いつくかの〆切を抱え、ここ一週間はまとまった睡眠も取れずにいた。やっとパズルのピースがすべて揃い、なんとかして組み立てたそれを暗記するほど読み返し、推敲を重ねて、やっと担当に送ったところだった。 「どうせヒマ」という言い方はいささか腑に落ちなかったが、空っぽの冷蔵庫の前で空腹を抱えていたところだったので即座にOKした。 待ち合わせよりもかなり早めに家を出る。日は
第4話 「ああ、降ってきましたね」 担当の飯田氏の声に、僕は手元の書類から顔を上げた。窓ガラスにぽつりぽつりと雨粒が打ち付けられている。 出版社を訪ねていた。来年に刊行予定の本の装丁について、打ち合わせをするためだ。 「如月さん、傘は持っていますか」 飯田氏が尋ねた。首を振る。雨は夜半からという予報だったし、家を出た時もそんな気配はなかった。地下鉄の駅を降りて地上に出た時に空が暗く陰っていたので驚いた。 「よかったらお持ちください」 僕の返事を待たず、飯
第5話 キッチンの明かりだけを灯した薄暗いリビングに、コーヒーメーカーの音が響く。窓の外は暗く、雨がしとしとと降り続けている。 眠れなかった。本を読もうとしても、映画を観ようとしても、なにも頭に入ってこない。 どうせかき消すことができないならと、コーヒーカップを手に、窓ガラスに貼りついた水滴を眺めていた。 「ありがとう。ホントに助かっちゃった」 そんな声が頭によみがえる。後部座席のシートで、さくらは僕に向かって両手を合わせた。 「電車の中でこの子が寝ちゃ
第6話 浮遊する言葉の尾を追いかけていた。聞こえない音に耳を澄ませるように意識を凝らすと、かけっぱなしで忘れていたBGMが、まるで小さな羽虫のように僕の耳の周りでぶんぶん飛び回り始めた。慌ててリモコンをつかみ、スピーカーをオフにする。 姿を捉えかけていたはずの言葉は再び遠くまで飛び去ってしまった。僕はもう一度、さっき辿った道順を思い出しながら、同じようにアプローチする。 片方の手で顔を半分覆った。集中したい時はいつもこうする。目を瞑ってしまうと、眼裏に小さな
第7話 チャイムを押し、一歩下がって待った。耳を澄ませていると、ドアの向こうでかすかに近づいてくる足音がする。魚眼レンズからこちらの様子を窺っている気配がしたが、ドアは開かない。 もう一度チャイムを押す。二度、三度。ドアから漏れ出てくる音が、ますます僕を苛立たせた。冷静になろうと努める一方で、こそこそ逃げまわる相手を許せない気持ちが沸き起こる。 ドアを叩いた。しかし応答はない。もう一度叩こうと振りかぶったところで、開錠の音がした。 「なによ、透。どうしたの
第8話 短いメッセージがさくらから届いたのは、夜半のことだった。 返信しようと、何度も文字を入力しかけては消す。どんな言葉も、相応しいとは思えない。 もう一度彼女のメッセージを読み返した。 『こんなに反省している武を見るのは初めてで、驚いています。まだ複雑な気持ちだけど、操のためにも家族としてやり直さないとね。如月くんには迷惑をかけてしまって、本当に申し訳ないです』 友としての親しみが込められている。けれどもそれはすなわち、僕と彼女との間に横たわるはっき
第9話 遠くでざわめきが聞こえる。 廊下に誰もいないことを確かめると、僕はそっと図書室の扉を開け、身体を滑り込ませた。 夏休み前の短縮期間は、給食を食べたらすぐに下校だ。昼休みがなく、放課後も図書室は解放されない。 けれども、鍵がかかっていないのは知っていた。だからこうして、読み終えた本を返して新しい本を借りるために、忍び込むことは初めてではなかった。 図書室は普段と違って薄暗く、空気が重い気がした。吸い込むと、みぞおちがぐっと押し込まれるような感覚
第10話 そこで目が覚めた。 詰めていた息を吐いた。横隔膜が震える。 片方の手で顔を半分覆った。暗闇の中に、愛しい人の姿が浮かんでくる。 「さくら」 名を呼んだ。とたんに、涙があふれる。 すべて終わったはずだった。 それなのに、炎はまだここにある。 激しく燃え盛るのではなく、静かに、けれどもしたたかに、僕の心を震わせている。 行き先を失った僕の心を灯している。 存在したがっている。 生きたがっている。 ああ、と声が漏れた。温か
第11話 マンションのエントランスで、僕はポケットからハガキを取り出した。部屋番号を確認してからボタンを押す。 「はーい」 その声が、三十年という長い時間を一瞬で溶かした。僕が名乗ると、「どうぞ」という声と共にオートロックが開く。 エレベーターの中で、僕は背面の鏡に映る自分の姿に目をやった。 生え際にぽつぽつと白いものが混じる。特にサイドのあたりは多く、固まりになっていた。 輪郭がたるんでいるのがわかる。目頭から伸びる皺は頬を斜めに縦断しているし、心な
このたびは短編小説『望月のころ』をお読みいただき、まことにありがとうございます<m(_ _)m> こちらの作品は、2008年に書いたものを大幅に加筆修正したものです。 わりとお気に入りの作品で、当時通っていた文章サークルの同人誌にも掲載しました。 さてさて、今月はわたし、ある件で忙殺されておりました。 実はかつて通っていた文章サークルの講師が、2年前の2022年にお亡くなりになってしまったのです。享年八十六歳でした。 先生のお母さまは百歳まで生きておられ