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子どもと生命科学

 ちょっと古い時代に流行った、古い世代のシステム論を、子どもの理解に応用した「子ども学」という枠組みがある。

 素朴に説明すれば、子どもというシステムに、多様な情報、あるいはプログラムを与えていくことで、子どもが成長していく、というイメージ。医学やら教育やら、保育や福祉やメディアや政治や文化や経済や、いろいろな刺激が子どもというシステムにインプットされた結果、何らかの成長や変化が起こる、という展開が想起される。

 縦割りの分野に分断されている状況から、分野横断的に学際的に子どもにアプローチすることが可能になる、という目論見に飛びついた人たちもたくさんいたようだ。そういう時代の空気があったのだろう。例えば、病気や虐待等の問題を抱えた子どもに対して、医師や警察だけでなくて、様々な関係者や専門家が集まって、子どもを助けたり、守ったりする問題解決を考えるイメージにはぴったりかもしれない。

 よいものが与えられれば、よく成長し、与えられるものが良くない場合は、よく成長しない。だから、子ども、というシステムを構成する上で、よいものを与えていこう、という考え方につながる。

 しかし、何がよいものであるのかは、多様な考えがある。その価値判断をめぐる時代の価値観や政治的な力学もある。ミクロに、マクロに、子どもをめぐる多様な力関係も反映される。何より、何がよいのかすぐに判断できないこともたくさんある。

 例えば、マンガ悪者論、アニメ悪者論、スマホ悪者論・・・という悪者たちの栄枯盛衰を見れば明らかだ。はじめ、一方的に悪者だと決めつけられたとしても、その後、それらが愛され、それ自体が多様化し、豊かな文化として成熟していく過程もある。

 システムの内部も、与えられるプログラムも、それぞれにスタティック(静態的)でブラックボックス化されたものだったら、結局何が何だかよく分からないままだ。むしろ、それぞれの過程やダイナミズムを丁寧に見ていくことが重要なように思うし、その上で、それらの相互の連関を見ていくことが重要になるはずだ。

 旧来的なシステム論は、その後、ざっくりした流れを言えば、オートポイエーシス(自己生成システム)的な思考に展開した。境界を持ち、外部を持たない閉鎖系のシステムが、自律的に自己生成していくイメージだという(?)。オートポイエーシス自体は、脳神経のニューロンネットワークを指すものとされ、これを子どもの理解に当てはめるのが適当なのかどうか、ちょっと戸惑うが、神経系以外の多様なシステム論が、オートポイエーシス論に乗り移った、ということらしい(??)。

 オートポイエーシス論の真骨頂は、生命系の理解にある。機械は壊れたら誰かが修理しなければおしまいであり、現状では、機械が自らのコピーを生成するとは考えられていない。その対比が意識されながら、自律的に生命が維持され、再生産されるシステムの説明が流り、システム論的「子ども学」が説得力を持った。

 子どもというシステムが創発性を有して自律的に再生産していく、という言い方なのか、あるいは、子どもを含む生命系のシステム全体の自律的再生産という言い方の方が適切なのか。いずれにしても、システムは不変のものではなく、再生産されながら、変容を続ける。子どもの成長も同様に、50年前の子どもの育ちと、50年後の子どもの育ちが、同じシステムを想定して論じられるとは考えにくい。

 そんなこんなで、「子ども学」という枠組みに、強くこだわる必要はないと思うけれど、多様なものがつながり合っているので、お互い無視しないようにしよう、相互に影響し合うところもあるだろうから、いろいろ丁寧に見ていこう、という話であれば、まあ、まだしばらくは使える枠組みなのかもしれない。あるいは、必要があれば、批判的に乗り越えていったらいいものなのかもしれない。 



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