わたしは、今を生きている
今わたしは、古代からの人々の全てが、誰一人漏れることなく、見てきた風景を見ることになった。それは、気が付けば生まれていて、そして、気が付けば生きることから遠ざかって行く風景である。
ここ数ヶ月はブレーズ・パスカルから知恵を授かり、また、歎異抄から人として生きることで得られることの限界を念仏と言うことで知った。それは、知ることで得られることの限界でもあった。養老孟司先生から、1人称2人称3人称の死とわたしとの関わりについて(老い方、死に方 PHP新書)は、ともすれば緊張しているわたしをほぐしてくれた。そして、ここに来て、「死と向き合うことは、今この現実を誠実に生きることだという」(自省録 マルクス・アウレリウス)と向き合うことにしました。2000年の長きにわたり読まれてきたローマ皇帝の書である。
「死もまた自然のいとなみの一つである。 だからこそ、死に対して無関心ではなく、あせることもなく、軽蔑することもなく、自然のいとなみの一つとして死を待つことは、思慮深い人にとってはふさわしいことなのだ。 君がいま、妻の子宮から子どもが生まれ出るのを待っているように、君の魂が肉体という容器から抜け出ようとするのに備えるべきなのだ。」
(マルクス・アウレリウス. 超訳 自省録174)
→無気力になったり、無視したり、気を紛らしたり、無意味に強がったりしないで、骨と灰になるわが身を考えて見る。
「いつ死んでも、たいした違いはない。
何年もたってから死ぬことになろうと、あした死ぬことになろうと、それほどたいした違いではないと思うべきだ。」
「熟したオリーブの実が、自分を生み出してくれた自然を祝福し、成長させてくれた木に感謝しながら落ちてゆくように。」
(マルクス・アウレリウス. 超訳 自省録170 172)
→実に安らかなオリーブの木を、わたしのオリーブの木に気が付く。
「なんと恥ずべきことか! わが人生では肉体がまだもちこたえているというのに、魂のほうが先にくたばってしまうとは。」
(マルクス・アウレリウス. 超訳 自省録42)
→全てを無意味にして行く大きな淵に飲み込まれそうな、ふとした瞬間に思いをよぎって行く。アウレリウスでさえもこうした思いがしたのだと思えば、また、力が出てくる。同じわたしの戦場に駆けつけてくれるアウレリウスの姿だ。
「この地上の人生でたった一つの収穫は、敬虔な態度と社会のためになる活動である。」(マルクス・アウレリウス. 超訳 自省録43)
→生きる意味よりも、生きることが大切と知ったわたしは、念願が叶って、重度知的障害者の施設で40年間働くことができました。
また、今までやって来たボランティアへの終わりを関係の方に告げる日が続きました。30年やって来た保護司活動、他には、民生委員会会長や担当の方へのあいさつ、それから、認知症カフェの会長など。
でも、決して敬虔な態度は持ち合わせていませんでしたけれど。
「この世に存在するものは、絶え間ない川の流れのようであり、その活動はつねに変化し、もろもろの原因もまた無限に変化している。」
(マルクス・アウレリウス. 超訳 自省録006)
→ まるで、方丈記の冒頭を読んでいるみたい。
変えられる現在のことだけを考えよう。