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死ななかったのは、生きたかったからじゃない_頸椎骨折・頸髄損傷した私の場合

2009年2月某日 AM4:30

16歳の2月、とある朝。

頭蓋骨と頸椎と胴体を繋ぐための医療器具『ハローベスト』を装着していた私は、療養型リハビリ病院の大部屋の自分のベッドを抜け出して、談話室の窓辺にある長椅子に腰掛けていた。

その日のパジャマは赤色のタータンチェックで、それは長い入院生活での一番のお気に入りだった。

理由は、着ているとぱっと見で女だと分かるから。

看護師さんに手術台の上で刈られた頭は場所によって髪の長さが違っていて、損傷した頸髄のせいで知覚過敏の酷かった襟足部分は、バリカンを当てることができず、無惨にも丸刈りにされる一歩手前の状態で、私はすでに2ヶ月も入院生活を送っていた。

むき出しのおでこと、左右の耳の後ろから計4箇所、頭蓋骨にボルトを打ち込まれ、金属で固定された頭頂部には真新しい裂傷のあと。
赤いタータンチェックでもないと、「喧嘩」で頭を割られた男の子のように見えたのだ。

それまでの2ヶ月の入院期間で、熟睡できた夜はなかった。寝返りが打てず、身体中が軋んだからだ。

寝返りどころか、ハローベストのおかげで仰向けになることも出来なかった私は、緊急で運ばれた救命病棟にいた頃から、ベッドに座って眠っていた。それでも、救命病棟ではここまで身体中が痛むことはなかった。

生きるか死ぬかの境目で、今にも命を落っことしそうな人たちが運ばれてくる病棟だったので、きっと素晴らしく性能の高いマットレスだったのだろう。この療養型のリハビリ病院へ転院してきた初日の夜に、私はそれを思い知った。


「横になれないので、今まで毎晩座って寝てきたんですが、こちらのマットレスが薄くて…お尻と脚が痛くて、昨日は3回も目が覚めてしまいました。なんとかマットレスを変えていただけないでしょうか…」


転院2日目に両親を経由して、ダメ元でお願いしてみたものの、病院からの返答は「NO」だった。


この病院にはそもそも高齢の患者が多く、脳梗塞などで完全に寝たきりの患者に対して、褥瘡防止のために厚いマットレスを使用しており、私に使用できる余剰はない、とのことで、私には、掛け布団がもう一枚余分に支給された。

それをどう使うのかというと、夜中に目が覚めるたびに、右のお尻の下、次は左のお尻の下…と、身体とベッドの間に交互に挟んで、体重がかかる半身が痛みだすまでの少しの間に、まどろむのだ。

そんな夜を過ごしてきた私の頭は毎日ぼうっとしていた。首の骨がくっつくのを待つばかりの退屈な入院生活。
私はぼうっとした頭で、日中は数学の問題集を解くか、母が借りてきてくれた恋愛ドラマのDVDを見ていることが多かった。

何シリーズもあるその恋愛ドラマは、終わりの見えないそんな生活にぴったりだったし、数学の問題集は、解き方を習っていない問題にぶつかるたびに、少しでも勉強しないと、と自分を奮い立たせるのにぴったりだったからだ。


その早朝も、私にとっては昨晩から数えて4度目の目覚めだった。
しかし、いつもとは違っていた。夢の中の私もハローベストを着けていたのだ。

その夢は私にとって、交通事故で頸椎を2本骨折し、頸髄損傷してから初めて覚醒したあの日よりも衝撃的だった。

今まで、どれだけ現実の私がボロボロで、身体がめちゃくちゃに痛んでいても、夢の中の私はいつも通り。交通事故に遭う前の元気な姿でいた。
だから、細切れの睡眠でもなんとか耐えられてきたというのに。ついに夢の中の私も、ざん切り頭で、パジャマにハローベストの姿で登場したのだ。

それは、おでこから打ったボルトの1本がゆるんで、頭から血が噴き出る夢だった。

恐ろしかった。
ついに、本当の私はいなくなってしまったかのような、そんな喪失感があった。

夢から目覚めた私は動悸が治らず、1人ベッドを抜け出して、まだ暗い廊下の壁をつたって病室を抜け出したのだ。
とにかく何か気がまぎれることをしたい。
あの恐ろしい夢を一瞬でいいから忘れたい。
逃げたい。その一心で。

でも入院中の私に行き場などない。仕方なく廊下の突き当たりにある談話室に逃げ込んだ。
いつもは見舞客でいっぱいだが、さすがにこんな時間には誰もおらず、掛け時計は朝の4時30分を指そうとしていた。

談話室の壁際には長椅子があり、壁際のカーテンは半開きだった。そこから見える窓ガラスの向こうは、どんよりと曇っている。

私は悪夢を振り払いたい一心で、長椅子の上に膝立ちになり、窓ガラスの向こうを覗き込んだ。

おでこから伸びるハローベストの金具越しに見た窓の向こうは、曇っていたのではなかった。冷たい外気に、結露していたのだ。
あまりにもあたたかな院内の空気に、私は2月の気温のことをすっかり忘れてしまっていた。

わざと、感覚と動きが鈍くなった左手で窓ガラスの水滴を拭うと、指先が痺れるように痛んだ。
窓の向こうにはくっきりと、白む空と、規則正しく点滅する信号機と交差点。
そのまま、睡眠不足の頭と視界で、私はぼうっと交差点を眺めた。

信号機の点滅に合わせて、トラックや新聞屋のバイクが規則正しく道路を流れていく。まるで世の中の流れそのもののようだった。

何の変哲もない大阪の下町の、どこにでもある朝。

けれど、真っ白な院内とは違って色に溢れた外の世界は、私の目にはとてつもなく美しいものに見えたのだ。

私は1人、世の中から取り残されたかのように、あたたかな病院の窓辺から、それを眺めていた。


どれくらいの時間だったのだろう。もしかしたら一瞬だったのかもしれない。
けれどそれは、「私がいなくても世界は動き続けるのだ」ということに気付くためには、十分すぎる時間だった。

私がいなくても、あの青信号は、次の瞬間には赤信号に変わる。私がいなくても、あのトラックは次の瞬間には動き出す。

それと一緒で、私のいない高校では今日も数学の授業が続けられ、私が習わないまま1つの単元が終わっていくのだろう。

私がいなくても級友たちは青春を謳歌し、私がいなくても、夜は明け、いつか冬は春に変わる。






そっか。
私って、いてもいなくても、同じじゃん。





窓ガラスの向こうを見つめ、唐突にそう思ったあの時。

あの時の私は確実に、孤独だった、と言えるだろう。



2023年5月5日

まもなく31歳になる私は、ゴールデンウィークのある夜、自宅のベッドで横になりながら、スマホで、ある新聞記事を読んでいた。



その記事は、コロナ禍をきっかけに、孤独を感じる人間が増えていることを示していた。

なかでも、2021年の小中学生の不登校者数、2022年の小中高生の自殺者数は、過去最多だったらしい。

なんということだ…気の毒に。


他人事のような感想が頭をよぎったその瞬間、私はまるでタイムスリップしたかのように、16歳の2月の、あの冬の朝の孤独を、強烈に思い出したのだ。

どうして忘れてしまっていたんだろう。

そんな自問自答をしても、答えは単純だった。
忘れていたのではない。あまりにもつらかったから、封じ込めていたのだと。

この新聞記事を読んでから、まるで引き金を引かれたように、次々と「あの頃」のことが頭に浮かんできている。

剥がれたかさぶたの下からピンク色の肉が表れたかのように、「あの頃」の記憶はまだ私の中に残っていたのだ。

どうして、約15年も経った今なのか、それは私にも分からない。

けれどもっと時が経てば、きっと本当に過去のものになってしまう「あの頃の私」を今、どうしても書き留めておきたくなったのだ。

だから、下手くそな文章だけど、残したい。

死にたくて死ねなかった、あの頃の私のことを。そして、その後の私のことを。



2008年12月16日〜20日

両親は、私の頸椎が2本も折れていることを医師から聞き、死ぬほど驚いたことだろう。
なぜなら前日、最初に救急で運ばれた地元で1番綺麗な大学病院では、頸椎骨折は1箇所だと聞いていたからだ。

専門医がいないということで、系列の別の大学病院に転院した私は、そこで
「頸椎骨折」
「頸髄損傷」
「頭部裂傷」
「全身打撲」
と、診断された。


不幸中の幸いだったのは、MRI画像では頸髄損傷していることは明白なものの、当の私は全身を痛がっていて、足の指の先から頭のてっぺんまで、どうやら感覚がありそうだったということ。

また、7本ある頸椎のうち、上から3本目までの位置の頸髄を損傷すると、自発呼吸が難しくなる可能性が高いそうなのだが、私の場合はそうではなかったということ。

そして、後から追加で発覚した骨折箇所は、頸椎の中でも「歯突起」と呼ばれる、頭蓋骨との支柱になる骨だったのだが、ここが専門医曰く「綺麗に」骨だけが折れていたため、脳の下部、延髄には傷が付かなかったということ。


「あと1ミリ損傷箇所がずれていたら、お嬢さんは即死でした」

専門医は両親への説明を、こう結んだらしい。


私自身のこの頃の記憶はというと、実は曖昧で。

全身の毛穴の数が数えられるくらいに身体中の神経が過敏になっていて、ストレッチャーの振動も、シーツの衣擦れも、その全てに私の傷付いた神経が過剰に反応し、全身の皮膚がずるむけになったような、この世にある痛みの全てを濃縮して、151センチの身体に注入したかのような生き地獄の中で、気絶したり、呻いたりすることしかできなかった。

「こんなに痛いなら、死んだ方がましなのかもしれない」と思うと、不思議と身体中から痛みが引き、何だか頭の中がふわふわしてきて、自分の身体から魂が抜け出しそうになった。

そのたびに、「だめだ、このままだと本当に死んでしまう」と強く思い直すと、身体中がまた激しく痛みだし、魂が身体に引き留められる。
そんな不思議な体験を、何度も何度も繰り返した。

気絶中は、夢もたくさん見た。

数学のテスト勉強をサボる夢。
部活の朝練に行きたくないなぁと考えている夢。
ろくに練習もせず、ピアノ教室に向かう夢。

夢の中で、私は、そんなだらしない自分の姿から目を逸らせず、ただそれを眺めることしかできなかった。


いくつも夢を見て、私は気付いた。
それは夢ではなかったのだ。
すべて、過去の私だった。

あれが走馬灯というのならば、走馬灯とは、次の命ではこう生きなさい、とその人に伝えるために神様が用意する最後のプレゼントなのかもしれないと、今ではそう思っている。


現代医療には感謝しかないのだが、この後専門医は私に『ハローベスト』という医療用の装具を装着してくれた。

おでこ2箇所と、左右の耳の後ろの2箇所から頭蓋骨にボルトを打ち込み、ハローリング(Halo ring)と呼ばれる金属の輪と、そこから伸びる4本の金属の支柱を繋ぐ。

そして裸の上半身に硬い素材で出来たベストを装着し、残りの金属の支柱はこのベストへと繋ぐ。すると、金属の支柱によって折れた首を牽引したまま、固定することができるという仕組みだ。

とは言っても、ほとんどの人は、見たことも聞いたこともないであろう『ハローベスト』のことを、私の拙い説明だけでは想像ができないと思うので、ここでアーティスト・King Gnuの『どろん』という曲のPVを紹介したい。

このPVに出てくる、頭頂部を金属で囲まれたおどろおどろしいキャラクターが、ハローベストを装着している。


完全に覚醒した時のことは、よく覚えている。

救命病棟の大部屋で、カーテン1枚隔てた隣のベッドから突然、
「何で救急車呼んだんや!」
という女性の叫び声がしたからだ。

どうやら隣のベッドには見舞客が来ているようで、私のベッドの右側のカーテンは人の形に膨らんでおり、その膨らみはうっ、うっ、とかすかに漏れ出る泣き声に合わせて、カサカサと揺れていた。

私はその様子を目の端で捉えながら、自分自身の身体に意識を向けた。
ハローベストのおかげなのだろうか。あれだけ激しかった痛みが、鈍い痺れになっていた。

救命病棟の大部屋の片隅、死にたかった誰かの叫び声を聴きながら、1人、私は自分の命と向き合い、全ての後悔をやり直せるチャンスを得たことを理解したのだった。


この時、たった1人で流した涙は、確かに、命が繋ぎ止められたことへの安堵と感謝の涙だった。

でもこの時は、命を続けるということが一体どういうことなのか、私はまだ、その本当の意味を理解していなかったのである。



2023年5月15日

ゴールデンウィークはあっという間に終わってしまった。

新型コロナウイルスが5類に移行し、マスク着用が本当の意味で「任意」になってから1週間が経ったけれど、18時半の新宿駅の人混みはマスク姿の大人で溢れかえっている。

久しぶりに押し合いへし合いになっている満員電車の車内で、サラリーマンに左肩を肘置きにされながら、私は子どもの頃に好きだったアニメの主題歌のことをふと思い出した。

都会の人混み 肩がぶつかって
ひとりぼっち
果てない草原 風がビュビュンと
ひとりぼっち
どっちだろう 泣きたくなる場所は

本当にさみしいのは、どっちなんだろう。



2008年12月21日〜2009年2月某日 AM4:30

命が繋がり、全ての後悔をやり直せるチャンスを得たことを理解した私は、新しい命に向き合って「生き直す」ことを自分自身に誓った。

けれどそれは、目には見えない自分の心と向き合い続ける日々の、始まりにすぎなかった。

はじめ、私は自分の身体について、
「頸椎を折って、頸髄損傷までしたのに生きてる。動く。生きてるだけで素晴らしい」
と心の底から感じていた。それは決して嘘ではない。

しかし転院し、入院生活が長くなるにつれて、「生きてるだけでは駄目なんだ」と、これまでとはまったく逆のことを考えるようになっていったのだ。

あれだけの大怪我だったにも関わらず、奇跡的に私の四肢には大きな障害は残らなかった。

けれど、頸髄損傷の影響で、外から見ると分からない身体の不調を全身に抱えることになってしまい、それが私の中の小さな不安の種を、ゆっくりと、でも確実に大きくしていったのだ。

まず首周りの知覚。
おかしくなってしまったようで、透明人間の手でいつも首を絞められているような感覚の違和感と痛みが、鎖骨の下まで広がっていた。

今はいい。
ハローベストを装着しているので、普通の服はどうせ着れない。

でも、退院後はどうだろう。

永遠に裸ではいられない。
服を着なければいけないが、素肌に布が触れて悶絶している自分が容易に想像できた。

空気が触れるだけで皮膚が痛いのに、髪の毛が触れたらどうなるだろう。
そう思うと、あぁ、もう一生髪は伸ばせないかもしれない、と絶望的な気持ちになった。

そして左手。明らかに握力が落ちていた。
指の動きも、事故に遭う前と感覚が変わっており、右手と比べると少しの衝撃で痛む。

高校ではハンドボール部だったので、普通の女子高生以上に握力があったはずなのに、力を込めて握っても、以前のようにうまく力が入っていかなかった。
これではもう、選手には戻れない。

それ以上に、ピアノとギターを、もう二度と以前と同じようには弾けないのだという現実に、16歳の私は打ちのめされた。

子どもの頃からピアノ教室に通い、中学に入ってからはギターも始めて、曲を作ったり、演奏することが好きだった。
バンドを2つも組んでいた。
交通事故に遭った日もスタジオで練習するはずだったし、演奏を録音し、1ヶ月後の大会にデモテープを送る予定だった。
いつか音楽にまつわる仕事がしたいと思っていた。


けれど。
けれど。
けれど、もう………


そもそも将来以前に、学校はどうなるのだろう。

憧れの高校に、やっとの思いで入学したばかりだった。

こんなに休んで、戻れるのか。
留年してしまうのではないか。

まとまった睡眠が取れず、ぼうっとした頭で数学の問題集にかじりついてみても、まだ授業で解き方を習っていない問題にぶつかるたびに遅れを自覚して、ただただ心が焦るだけだった。


「あの事故で、よく生きてた。死んでいてもおかしくなかった」

「髪型はなんとでもなるよ。ショートカットでも大丈夫だよ、生きてるんだから」

「左手でよかった。右利きなんだから生活に支障はないね」

「学校で待ってるからね。早く元気になってね」


私の命を救ってくれた医療スタッフ、高校の先生、友達、家族。みんな、私を励ましてくれた。

そのたびに私は笑って、おどけて、「早く元気になります」と言い、お見舞いのメールに返信した。

でも、本当は叫びたかった。
嘆きたかった。
優しい人たちを傷付けたとしても、大声で泣きたかった。


「こんなんじゃ、生きてたって仕方ないよ!」


って。


でも泣いたって、現実はどうにもならない。

タイムマシンは存在しないし、生きているだけでもありがたい状況で、そんなわがままを言うほど、私は愚かな子どもではなかった。

誰かに励ましてもらうたび、顔では笑って、心で泣いた。
ひょうきんなふりをして、自分の心を守ろうとした。

けれど、こんな自分を見られたくなくて、面会は謝絶し、人を遠ざけた。


私の人生は変わってしまった。


心の中では、いつもそう思っていた。


そして、2009年2月のあの朝に繋がっていく。



2009年2月某日 AM5:00

今思えば、何を当たり前のことを、と感じる。
自意識過剰だとも思う。

でも、知らなかったのだ。
私がいてもいなくても、世界はこんなにも美しいのだということを。

それに気付いた時、病院の3階から、窓の向こうの世界に突発的に飛び込みたくなった。

決して高層階ではないが、折れた首の骨がまだくっついていないのだ。落ちたらどうなるかは分かっていたはずだった。

でも、もうどうしようもなかった。

描いていた夢を失い、それでも、救われた命をまっすぐ生きていかなければならない。あと何年、何十年、こうやって自分の心に嘘をついて、笑顔でいなければいけないのか。そう思うと、たまらなかった。

でも、施錠された窓ガラスの鍵は開かなかった。『ハローベスト』で固定された身体は腕が肩より上に上がらず、鍵に手が届かなかったのだ。

折れた首を手で絞めようにも、窓の鍵同様、身体が言うことを聞かない。
舌を噛み切ろうとしたが、寸前で恐怖が勝り、できなかった。

死にたい、死ねない。

支えてくれる周りの人たちを悲しませたくない。

心に浮かんだ2つの気持ちはどちらも確かに本当で、私は相反するその思いに、自分でも気付かぬ間に押し潰されそうになっていたのだ。



2009年2月某日 真夜中

どこにも行けないのは分かっていたけれど、どこか遠いところに逃げ出したかった。
家族にも友人にも、こんな気持ちは誰にも打ち明けられないけれど、1人ではもう抱えきれずにいた。
苦しかった。

当時、SNSは今ほど盛んではなく、同級生の間ではもっぱら個人ブログを開設するのが流行っていた。
バンドや部活など、私もいくつかアカウントを持っていたので、そのうちの1つを『ゴミ箱』にすることを決めて、誰にも分からないようにパスワードをかけ、吐いて捨てるように、もう生きてたって仕方がないんだということ、将来の不安、身体の不調、誰かの優しさを力に変えられない自分の弱さ、その全てを思うがままに書き殴った。

消灯後の病室。
硬いベッドの上に座って、いつもと同じように身体の痛みに耐える。
眠りたいけど、眠れない。目を閉じると、今朝方感じた死への衝動に、今度こそ飲み込まれるような気がした。
それが恐ろしくて、私は思わず、すがるようにガラケーをスライドさせた。

すると、一通の新着メールが届いていたのだ。

そのメールの書き出しは、こうだった。
『今日のブログ、見たよ』

送り主は、メアド交換のあと、一度もやりとりをしたことがなかった別のクラスの同級生・T君。

彼は友達の友達で、ほとんど接点がなかったのに、誰にも見られないように私がかけたパスワードをなんとか解読して、『ゴミ箱』に吐き出したはずの私の思いを読んで、メールをくれたという。

それは長く、丁寧に綴られたメッセージで、彼は決して私を励ましたり、慰めたりすることはなく、ただこう伝えてくれた。


誰かのためになんか生きなくていい。
自分のためだけに生きてほしい。

明日とか明後日とか、考えなくていい。
今日だけでいいから、生きてほしい。


ガラケーの小さな画面いっぱいに並ぶ、生きてほしいという文字。
自分のためだけに、今日だけを考えて生きていいのだというその言葉に、私は目から鱗が落ちた。

自分のためだけに生きる

そんなこと考えたこともなかった。
救われたのだから、誰かのためにこの命は使うべきだと、そう思い込んでいた。

でも、誰に頼まれたわけでもないのだ。そんな考えは傲りでしかない。
私の命は、やっぱり私だけのものなのだ。

今日だけを考えて生きる

『明日なんて来ないかもしれないから、今日だけを見てればいいんだよ』というメッセージには、注釈で
※むぎながさん(私のこと)だって、ある日突然死にかけたんだし
とあって、私はそれを読んで思わずふふっと笑ってしまった。
そうだ、私は死にかけたんだった。

また突然死にかけることがあるかもしれないし、とてつもなく長生きするかもしれない。
良いことも悪いことも、次の瞬間に何が起こるかなんて誰にも分からないのに、私は一体何に怯えていたんだろう。

真夜中の病室で、私はT君のくれたメールを何度も読んだ。
心のこもったメッセージに私が感じたことを全部伝えたくて、返信はとてつもなく長くなってしまったけれど、
『夜遅くに連絡くれて、ありがとう。』
と、数時間の格闘の後、私はT君に返信を送った。



2023年5月23日

季節外れの大雨で足元をびしょ濡れにしながら、私は帰路を急ぐ。
北風が強く、今日の気温は3月上旬並みだというのだから、本当に嫌になる。

ビニール傘の先端に穴が開いているのだろうか。頭に落ちた大きな雨の雫が、そのまま皮膚を伝って首筋を濡らした。
死にたくても死ねなかった16歳の私は、まもなく31歳の、普通の会社員になった。

あれからの私はというと、なんとか留年を回避して復学し、同級生とともに高校を卒業した。
その後は大学に進学して、卒業し、今は東京で普通に働いている。道行く人が私を見ても、まず頸髄損傷しているとは思わないだろう。

濡れた首筋はやはり、15年経っても痛む。
『ハローベスト』のボルトが刺さっていたおでこの傷跡も痛む。
事故のために骨格が歪み、全身ギシギシ音が鳴って痛む。
けれど、『自分のためだけに』『今日だけを』を何百回も繰り返して、私はとうとう2023年の5月23日に辿り着いた。

身体にとってはこの感覚が普通になったのだろうか、「首周りが不快で痛いなぁ」と思いながらも、今ではタートルネックのニットも普通に着れるし、巻き方を工夫すれば身体に気兼ねなくマフラーも巻ける。

成人式の時は髪を胸の下まで伸ばしたし、ロングヘアにするかショートヘアにするか選べる状況で、私は私の意志で今はショートヘアにしている。

あの頃、普通の服がもう着れないかも、髪を伸ばせないかも、と絶望的になっていたけれど、幸運なことに、それは杞憂だったというわけだ。

それでも、今でも時々考える。『あの時、交通事故に遭っていなかったら』『あの時、大怪我をしていなかったら』と。

事故がなくても、夢を諦めなければいけない瞬間はやってきたのかもしれないし、夢を諦めたことを事故のせいにできるので、実は私は幸運なのかもしれない。
自分が到達できなかった未来に思いを馳せることはやっぱり切なくて、少し胸が痛むけれど、最近はそんなふうに考えることもできるようになってきた。

生きていると、人間は変わっていくのだ。それを知れただけでも、あの日死ななくて良かったと思える。

「生きてるだけでは駄目なんだ」
そんな考えに囚われた日々があった。

でも、例えベッドに潜って息をするだけの日だったとしても、少しずつ、少しずつ、日々を積み重ねて辿り着いた今の私の人生のことを、私はそんなに悪いもんじゃないと思えているし、今の私は事故に遭う前には想像もつかなかった場所で生きているけど、それを結構楽しんでいたりもする。

5月に、季節外れの冷たい雨も降る。

何がどこに繋がっているかなんて、きっと神様だって分かりはしないのだ。


今日が苦しくて、明日のことが考えられないあなたへ。
あなたの今日は明日には繋がっていない。
今日は今日でしかない。
未来なんかない。自分の空想でしかない。
だから、どうか今日だけを見つめて生きてほしい。

『今日』を繋げていくことでしか、辿り着けない場所。
そこがあなたにとって幸せな場所なのかは分からないけれど、『今日』を繋げることでしか知り得ないから、私も、私の『今日』をこれからも繋げていく。
あなたの命も、私の命も、自分だけのもの。

いつか、どこかの『今日』で出会えたら、ともに答え合わせをしましょう。

あなたに幸せな『今日』が訪れますように。



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