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平城京の建設責任者、多治比広成

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本日は平城京の建設者についてお話しさせて頂きます、よろしくお願い致します。

西暦710年、現在の奈良市に造られた都が平城京です。

当時の中国の首都「長安」をモデルに造られた都ですが、平城京以前の都と大きく違った点は、町の中心部にお宮を作らず、北部に建設したことです。建物や歴史について詳しくはウィキペディアをご覧ください。

今回ピックアップしたいのは平城京の建設造営の責任者である多治比広成という人物です。彼は再開2度目の遣唐使として長安の都城を実際に見て学び、帰国。そして平城京の建設責任者に抜擢され、兄の池守は初代造京司長官に命じられています。ここから多治比一族が建設作業に大量動員されることになります。

多治比氏は 後に失脚して後世のサンカになったと言われています。

サンカの伝承では「みたから」「みつくり」「しらひと」と云うカーストがあり、「しらひと」すなわち新羅人を使役したと云う伝承があります。後のサンカの多治比氏は新羅体制の中で新羅から来日した人々、又は技術者を監督する立場だったことがわかります。

失脚した理由は藤原種継暗殺事件や桓武天皇即位でわかるように、百済系の勢力が強くなった為であり、この頃新羅系の権力者たちが続々と失脚しているのも偶然とは考えにくいです。

話を平城京に戻します。近年の採掘調査により平城京が建設される以前、どんな建設物が建てられていたのか、明らかになりました。

先ず、大極殿や役所が建てられていた場所には200m級の前方後円墳があったこと、それを壊してすぐに建てられていることから、大極殿や役所を建てるために巨大な古墳を破壊したと云う説が有力です。

また、全長約114mの神明野(しめの)古墳は完全に壊されその上に御所が建設されています、市庭古墳は全長約253mの前方後円墳ですが前方部が破壊され現在は後円部の丸い墳丘のみ残っています。

このように平城京の建設時には前王朝の遺跡を破壊する作業が進められました。壊された古墳は全て平城京を建設し始めた年代からさかのぼり約300年前のものです。誰の古墳かわからないまま巨大な古墳をいくつも破壊しその上に新しく都を作るとは考えにくいのではないでしょうか、つまり意図的に前王朝の古墳を破壊し、権力を誇示した可能性があります。出土した遺骨を別の場所に祀るといったこともせず、「丁寧に埋め戻して魂を鎮めるように」との命令が709年に出されているだけなのも、一種の無法さを感じさせます。

いかがでしたか?平城京の建設責任者、多治比広成氏はまだまだ謎な部分も多いですが、興味のある方は下記の書籍や史料なども読んでみてくださいね。


参考史料

謎の新撰姓氏録[高橋良典著]

人物で読む平城京の歴史[河合敦著]

日本列島史抹殺の謎[佐治芳彦・吾郷清彦著]

シルクロードの倭人[鹿島曻著]

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