【古文書】皇族と朝鮮王族の結婚•ウガヤ朝時代の三韓外寇〜古書から日本の歴史を学ぶ〜
※この文章はYouTubeで無料で視聴できます
三韓来寇の伝承に基づき日本の皇族が朝鮮半島の王族と婚姻関係を築いた経緯についてお話しさせていただきます。
内藤写本のウエツフミ26綴と吾郷清彦さんの現代語訳を参考にしています※ 三韓はウエツではみからと表記
15代彦天皇(※御幼名:ウスキネヒコノ尊)の即位8年の秋、8月に三韓の賊徒が対馬国に渡来して民家を略奪し悪事を犯しました。対馬の国守であるカヤマタチヲクマノ尊は民と共に彼らを追い払いました。
けれども翌年秋、三韓の将軍3人は各々大船3隻に分乗して来航し、再び対馬の周辺で悪事を犯しました。そこで対馬の国守はまた民を率いて賊兵を討ち、追い返しました。
しかしその翌年の夏6月、再び三韓の敵軍は大船約80隻に乗って来航し対馬を包囲しました。
これを知った国守カヤマタチヲクマノ尊はタシの郡司アキタマロを早船に乗せて大宮に詳細を報告させました。
この報告を聞いた15代彦天皇は直ちに高津神をはじめ、朝臣たちを召集させ、話し合いが行われました。そして軍隊を派遣することに決まり、天皇はイナヰノ尊を大将軍に命じました、この尊は12代彦天皇の孫です。
副将軍にはコトシロホダワラノ尊とナルミタテヌヰノ尊に命じて、12人の朝臣達を軍監に命じました。(12人の名前は割愛)
【※写本では白日(しらひ)・速日(はやひ)】
大将軍イナヰノ尊は現在の福岡や熊本【※写本では白日(しらひ)・速日(はやひ)】に住む民を率いて多数の軍船に乗りました、各船に幔幕を張りその印として吹き流しを立て並べ、ホラを吹きドラを打ち鼓や金鼓を鳴らし高音をあげ、多くの人に軍衣を着せて丸い金の笠を被せ威勢良く真帆を上げ対馬国に碇泊しました。
そして大将軍イナヰノ尊は天津神達から教え賜った軍法によって外国の賊軍と戦う方法として次のことを教示しました。
合戦時の8つの基本について。
鼓を打てば進む、金鼓の場合は退く、八幡は敵軍が勢いよく攻めて来る時の合図、幕は矢よけに張り、楯は矢受けに立てる、戦って進み来る敵兵は殺し、ためらう敵兵は生け捕りにして助ける、
敵兵に隙があれば攻める
我が兵士一人は敵兵3人に当たり、しばらく戦ったら休む、
この時に鼓の音で新手を替える、軍監は指示に励む、味方は殺さぬように、危うい場合は退いてそうでない場合には進む、
敵兵が逃げた時は追ってはいけない、向かって来れば討ち、進退(しんたい)は合間をみて行い半数は戦い、半数は休む。
また、追い風に矢を放ち、向かい風の場合には石を投げて教えのごとく戦う、
この度の戦は海戦になるためそのつもりで行動し、計略(よこと)は綿密に、行動(わざ)は機敏(はげし)に行うこと。
ここで三韓の敵軍は80隻の軍船を連ねて毎日対馬の周辺を侵害しました。そして敵軍は皇軍の船が対馬に碇泊したと聞き、軍兵を繰り出して皇軍に戦を挑みました。その結果敵軍は多くの戦死者を出しました。
これを知った他の敵兵は皆各自の軍船せん に引き返しました。
この時大将軍イナヰノ尊は大分の速吸門(はやすいのと)付近に住む民、エゴのサマヨロという人物とその子供4人を呼び出し、「今こそ好機である、あの大船に敵の大将が乗っているに相違ない、よってあの船を沈めよ」と命じました。
命を受けた5人の親子は服を脱ぎ武器を携え海の中に逆さに跳びこみました。しばらくたって、敵の大将が乗っている船底から海水が侵入し船は水浸しとなり、敵兵は水に溺れて皆死にました。
これは速吸門の民が敵の船底を切り抜いたからであって、これを知った敵軍は船に帆をあげて逃げ帰りました。
皇軍の兵は追い討ちをしようとしましたが、副将軍が「今夜東雲(シノノメ)に必ず東風が吹くであろう、その風に乗り出航しよう」と命じました。
その晩、副将軍の予想通り東風が吹き、小夜刻さよこく(夕暮れ時)には三韓のカナアレ港に着き碇泊しました。※カナアレ港=釜山浦
そして上陸し、多くの陣屋を建て軍議を凝らし、高音・低音を響かせドラを打ちホラを吹き幡を押し立てて攻め進みました。
三韓の国王(ワニス)サイテニキは、皇大御国(スメラオオミクニ)の将軍たちが出陣してきたと聞き、5万人ほどの兵を集め、これを5軍に分け山沿いに陣を張りました。そして弓をかけ射る矢は雨のようでした。
11
皇軍は半分をアリナレの大河あたりまで廻らせ矢を放ちました。
敵軍は防ぎきれず崩れ去り、皇軍はその後を追って進みました。
敵兵は新羅の奥山に逃げ込んで応戦しました。皇軍はアリナ河を前にして陣を布きます、一方漢支那(からしな)は三韓を助けようとして千万の軍兵を派遣し、新羅に陣を構えます。これを探察して知ったククチタカトモノ尊とイカツチハシカケノ尊は大将軍にこれらのことを報告しました。
報告を聞いた将軍たちは「こと甚だ容易ならず」と言って皇軍を8軍に分けその1軍を漢支那の軍に向かわせました。
また味方である高麗(こま)・百済の軍とも連絡をとり、その翌日雨降りしきる中を出陣し、8か所から一気に戦をしかけたところ皇軍側で戦死したものは僅かでしたが敵軍の戦死者は多く、敵軍は恐れそれ以上進もうとはしませんでした。
皇軍は再び追い討ちをかけ新羅の国王サイテニキとその援軍である漢支那の使者ヨナシムキを生捕りにして大将軍イナヰノ尊の前に引き出しました。
ここに高麗王のトシウドと百済王のマリトユリの2人が参上して
「今後は日の御国ミクニに逆ようなことは致さず、親国の元津大御国と
斎き奉りこの国の王は全て大御国の牧山の馬飼・牛飼の首(おびと)となるでありましょう。それゆえ漢支那の使者と新羅王を助けてやってください」と歎願(たんがん)しました。
大将軍イナヰノ尊は2人の王の願いを聞き入れ、敵将を許しました。
ここに戦は治ったので将軍たちは凱旋して軍状を報告しました。
高麗王・百済王・新羅王・漢支那の使者らはイナヰノ尊につき従って様々な貢物を高千穂の大宮に献上しました。
そして新羅王は「私には子が一人おりますが、娘でありますので致し方ありません。イナヰノ尊に娘のモソシロフをあわせまして三韓国を治めていただきたいものと思います」と申し上げました。
これをお聞きになった天皇は朝臣達と相談し、ご承諾になりイナヰノ尊を新羅王の婿君にお定めになりました。
そしてその補佐役としてオオイカツチ ヤキダノ尊・ミホキモ ユラヒコノ尊
ヒワシ キシユヰノ尊の3人の朝臣に命じ、80人の随臣を付き添わせ、イナヰノ尊は御輿に乗って出発しました。
この一行が速日の山にさしかかったところ、その山が雷のように轟鳴り
それでも進もうとするとさらに山は揺れ動き並木を倒し岩を転がし大地は裂け震えました。けれども退くと地震は止んだため一行は大宮に引き返しました。
天皇は朝臣達と共に太占ふとまにの卜業(うらごう)を行います、
すると国照大神が天津高御座(たかみくら)に神現れ、「イナヰノ尊は天津霊の御種おたね である、外国に遣わして御種おたねを降ろすことはよろしくない、よって私が行くことを止めたのだ」と仰せられました。
天皇は再び八百万の朝臣達を召集され、ススキイワムロノ尊をイナヰノ尊の代役(おこしろ)に命じ、然るべき陣容を持って送り賜りました。
ススキイワムロノ尊が無事に新羅王の婿君になったことを聞いた高麗・百済の両王は新羅の王宮に伺候(さもらい)して
「私どもは天津霊嗣の天皇様が御代(みよ)を治め給う豊葦原の富足る瑞穂の大御国の牧山の牛飼人となります、天津霊嗣の天皇様直参(じきさん)の朝臣が、この賤しい夷の国の王として御身(おんみ)を落とされるということは大変もったいないことであります。それゆえ私どもは今よりこの国王の臣下となって末長く御仕え致しましょう」と申して貢物をたくさん献上しました。そしてなお「貴国(=新羅)の親族縁者となりましょう」と申し上げました。
※直参=主君に直接仕えること
ここまでがウエツフミの現代語訳です。
少なくともウガヤ朝15代彦天皇の頃から皇族と三韓の王族には血縁関係があった可能性があります。
三韓征伐といえば神功皇后が有名ですが、代理で新羅の婿になった
ススキイワムロノ尊の末裔が神功皇后だという説もあります。
また、三韓征伐の発端となった対馬国についてですが
神功皇后による三韓征伐もウガヤ王朝の時と同様に対馬から出航し、勝利の旗八流を対馬の一宮に納めたという記録があります。
そして1419年には李氏朝鮮によって対馬は再び攻められています、
これを応永の外寇と言います。
対馬国は地理的に奪われやすい場所でありながら古代から国守や朝廷の軍事外交によって死守されてきた島だと言えます。
最後になりますがウエツフミは未だ偽書とされていますので、今回の内容も日本昔ばなしということで終わりにしたいと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
参考書籍
吾郷清彦「古史精伝ウエツフミ原文併記全訳」
「古事記以前の書」
国立図書館コレクション「上記」