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【偽書】“天皇”と“皇帝”の違い 幻の書物【日本書】〜古書から日本の歴史を学ぶ〜

※この文章はYouTubeで視聴することも出来ます

こんにちは、今回は古事記と日本書紀は偽書なのではないか、というお話をさせて頂きます。宜しくお願いいたします。

[古事記]は現存する日本最古の書物で 712年に太安万侶が編纂し元明天皇に献上されたとあります。神代の時代から推古天皇までを上中下の3巻に伝存しています。


[日本書紀]は古事記と並び日本最古の勅撰史書であり神代の時代から持統天皇までを 合計30巻系図1巻の書物に伝存されています。720年に完成したということですが、実は現在私たちが読んでいる古事記・日本書紀は、奈良時代に完成されたものと内容が違っています。

例えば平安初期に成立したとされる[琴歌譜(きんかふ)]という古文書には《一古事記に曰く》と引用している逸文は、現行の[古事記]には記載がありません。
また、[釈日本紀]や[万葉集注釈]で引用されている[多氏古事記]も現在の古事記とは違います。

この様に古代の[古事記]と私たちが知る[古事記]とではタイトルは同じではあるものの、内容がどうも違うようです。

[古事記]の序には天武天皇が稗田阿礼に帝紀と旧辞を誦み習わせたとあります。"誦む"というのは歌として覚える、という意味合いがあることはホツマツタヱの先例を見てもわかると思います。
現在の私たちが知る古事記になる以前の書物の名前を便宜上[旧古事記]とすると、歌謡形式で[旧古事記]は書かれていた可能性があります。
現在の[古事記]にある82話の説話と、歌を含む説話34話、歌自体の数112曲を上巻・中巻・下巻にそれぞれ分けると、歌を含む説話の数は上巻に4つ中巻に13、下巻に17含まれており、歌自体の数は上巻8中巻43下巻61で時代が新しい程、歌の数が多くなっています。この比率は現在の古事記が本来は歌謡形式であり、旧古事記から引用した分量を表すのではないでしょうか。

上巻の神代紀は内容を徹底的に改竄されて消された歌が多く、下巻はそれほど改竄されていないので原本の歌が多く残っている、と考えることも出来ます。

[旧古事記]が歌謡形式で書かれていたならば、それはホツマツタエなのではないかと勘付かれた方もいらっしゃると思います。実際にホツマツタエの研究者にはホツマは古事記より前の古文書であり、古事記の種本になったと主張している学者の方もいらっしゃいます。
しかしながらホツマツタエが現行の[古事記]の種本、原書になったという学説は、少し違うと思います。
ホツマツタエを参考にしながら古事記を書いたのではなく、[旧古事記]を写したのがホツマツタエであり、その後古事記は度重なる改竄によって内容が大きく変容し、小説風の古文書になっていきます。ホツマツタエも改竄はされてはいるものの現在の古事記よりは旧古事記の原形を止めるに至った、古事記とホツマツタエは逆転の現象が起こったということです。
ホツマツタエが旧古事記を写したからこそ、ホツマにはウガヤ王朝の歴史が無いのです。

[古事記]の序には《諸家の持っている帝紀と本辞は…》とあり、伝承されている、ではなく持っているということは帝紀と本辞は文字にして書き出された書物ということです。
これを稗田阿礼に暗誦させたということは、暗誦後に帝紀と本辞は焚書にすることが決まっていたのではないでしょうか。
これと同じ頃.朝鮮半島の[三国遺事]文武王法敏篇の後半にはこのようにあります。
《時有貞州使走報曰。唐兵無数至我境…作文豆婁秘密之法。時唐羅兵末交接。…唐船皆没於水。後改剏寺。名四天王寺。至今不墜壇席。国史大改剏在調露元年己卯》とあり、白村江の戦いの後新羅が歴史を変造したことを記しています。
調露元年は西暦679年で天武八年に相当します。[日本書紀]の天武十年紀三月一七日の条には《…帝紀及び上古の諸事を記し定めしめたまう。大嶋、子首(こびと)、親ら筆を執りて以て録す》とあり、[三国遺事]の《国史大改剏在》と連動して歴史を変造したと考えることも出来ます。

※友田吉之助氏「日本書紀成立の研究」より引用⬇︎
調露元年の西暦679年は天武八年ですが、天武十年に書かれているのは、奈良時代において、現行干支紀年法以外に、一年又は二年引き下げられた干支紀年法および二年引き上げられた干支紀年法が存在していたためで、天武十年は天武八年、つまり調露元年に相当するという研究があります。
つまり日本と朝鮮半島は同じ年に歴史を改めたということになります。

白村江での戦勝国新羅は、安羅を含む邪馬台国の国家を再建させないためにも、元来そのような国家は存在しなかったとして歴史を造り直す必要があります。そのため旧古事記では倭国の歴史と百済の持っていたウガヤ王朝を含む歴史を隠すであろうことは容易に想像出来るのですが、引き続き[古事記]の序を見ていきます。

古事記には“天皇”と“皇帝”という言葉が出てきます。両者が“天皇”一本に統一されたのは道鏡の改竄によるものですが、ホツマツタエ(生州問答)を見ると道鏡はこの改竄の他にも天照大神を女神に変更させたりと[古事記][日本紀]を改竄したことが書かれています。元々[旧古事記]には男性神天照大神として書かれていていましたが道鏡の時代に女神になった、ということです。

道鏡の話は一度置いといて、“天皇”と“皇帝”の違いを見ていきます。
[古事記]の序には《天皇の御代にいたりて…》という箇所や《是に於いて天皇詔したまい…》《伊波礼毗古天皇以下、品陀(ほむだ)の御代(みよ)以前を中巻となし…》など天皇と書いてある箇所と、《伏して惟うに皇帝陛下、一つを得て光宅し、三つに通じて亭育したまう…》という文や《大雀(おほさざき)皇帝以下小治田(おはりだ)大宮以前を下巻となす…》とあり、“天皇”と“皇帝”を使い分けています。
天皇ではなく“皇帝”と書かれている大雀皇帝は仁徳天皇のことですが、仁徳天皇の正体は金官加羅の第7代吹希王の王妃で同じ名前の仁徳のことなので、金官加羅系統の王は“皇帝”と書いていることがわかります。

また、[旧事紀]の潮音本では継体天皇以下推古天皇までを「帝皇本紀」としていることや、[続日本紀]で藤原仲麻呂が新羅の司政官と解される舎人親王のことを「崇道盡敬(すどうじんきょう)皇帝」と書いていることからも、[古事記]の序が書かれた頃には“天皇”と“皇帝”は区別して書かれていたことがわかります。

“皇帝”には三韓と倭の支配者という意味があり、金官加羅と新羅系の王は“皇帝”として書かれ、百済系の王は一国の王、つまり“天皇”としてそれぞれ表現されていたのではないでしょうか。いずれにしても、古事記の訓読文では“天皇”と“皇帝”をどちらも「すめらみこと」と読ませていてこの言葉の違いについては触れられていません。

色々と謎が多い古文書ですが、さらに改竄前の古事記の原形を追って調べていくと、[日本紀]に辿り着きます。
例えば南北朝時代の[詞林采葉抄]に古事記に曰く、として引用されているものの内容が現行の[日本書紀]と大差がなく、逆に源氏物語の注釈書である[河海抄]や神道五部書の一つである[倭姫命世紀]で「日本紀曰く」とある内容は、[日本書紀]ではなく[古事記]に酷似していています。
現在[日本紀]と調べると「日本書紀の異称」や「特に日本書紀のこと」などと出てきますが、この解釈は史書の解読を余計にややこしくしています。[日本紀]と[日本書紀]の内容は異なるので同じ書物として考えるべきではありません。

[日本書紀]は[令集解(りょうのしゅうげ)][万葉集左注][広隆寺縁起][上宮聖徳太子伝補闕記]などの非官撰の書物に登場し、国史では[日本後紀]に登場します。


これに対し[日本紀]は[源氏物語][紫式部日記][大鏡]などの官撰の書物に登場していることからも、[日本紀]と[日本書紀]は同じ書物ではなく、異なる書物を使い分けている可能性が高いです。


[続日本紀]には養老四年、720年新羅の司政官と解される舎人親王が日本紀三〇巻、系図一巻を撰上した、とあります。日本紀は時代によって内容が変わるので、この時の書物を当時の元号を取って[養老日本紀]というのですが、新羅は金官加羅国から分かれた国家なので、この[養老日本紀]は金官加羅に始まって新羅に至る史書であり、白村江の戦いの後に新羅が秦王国、安羅、多羅、百済などを合併した経緯を述べた史書だと推測出来ます。

醍醐寺理性院に伝えられた[神代紀下巻]の奥書には延喜四年(905年)に日本紀を改めたとあるので、この時に内容が変わっています。


また時代が少し戻りますが、[神皇正統記]には桓武天皇の時代に[日本紀]を焼いて[日本書紀]を作った経緯が書かれているので、[日本書紀]が720年に完成したというのは嘘です。

[日本書紀]というタイトルは不思議な名前で、一般的な紀伝体では本紀、世家、列伝を一つにまとめて"〜書"としているパターンが多く、標題に書紀とつくのは特殊な形態です。
例えば唐書紀や新羅書紀などは聞いたことがないと思います。

ある学説では、紀伝体の揃った[日本書]を作成していたが未完成で終わり、[日本書紀]とは[日本書]の中の本紀部分であった、とあります。編年体の紀しかなかったがゆえに元々は[日本書]の下に紀と小さく書いていたものが伝写の間にくっついて[日本書紀]となった、という学説です。
この学説の真偽はわかりませんが…、

以上のことから、[古事記][日本書紀]は学問的には改竄だらけの史書であったことがわかります。一体何を基準にして正史や偽書と判別するのか…あらゆる史書は政治的であり、庶民からは切り離された利己主義の産物なのではないでしょうか。

戦前は皇国史観に則り歴史を偽ることが国益に繋がっていたので百歩譲って仕方がなかったとしても、現代において天皇は象徴天皇であり国政に関する権限を有さず、主権は国民にあります。
それでも尚、日本の歴史が万世一系の天皇を中心として展開されているのは、これは天皇のためではなく学者自身の私利私欲や保身以外の何ものでも無いと思うのです。

今回は以上です。古代史には膨大な学説がありますので、今回の内容はそのうちの一つだと思っていただいて、是非皆さんも調べてみて下さい。
最後までご覧頂き、ありがとうございました☆

📖この動画の参考書籍📖
鹿島曻著書「倭人興亡史」「日本王朝興亡史」
友田吉之助著書「日本書紀成立の研究」
東洋文庫「三国史記1新羅本紀」
中村啓信著書「古事記 現代語訳付き」
黒板勝美著書「国史大系 日本後紀」
金思燁著書「三国遺事完訳」
吾郷清彦著書「日本建国史ホツマツタヱ」
家永三郎著書「日本書紀」
大隅和雄著書「日本思想大系中世神道論」
吾郷清彦他17名著書「神道理論大系」
石原道博著書「新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝」「新訂 旧唐書倭国日本伝・ 宋史日本伝・元史日本伝」
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