見出し画像

箱庭

 ぼくが棚橋花李に会ったのは、上司の家に招かれた時だった。彼女は庭で盆栽の手入れをしていた。上司は「変わった娘だろう」と笑った。慥かに女の子が盆栽を弄っているのは奇妙な光景である。そして彼女は、食事の席にも現れなかった。
 庭を見せて貰うと、彼女はまだ盆栽を弄っていた。
「熱心ですね」と声を掛けたら、彼女は驚いたように顔を上げた。
「ああ。今日、客人が来ると云っていたな」
 彼女はとても女とは思われない口振りで答えた。
「父の部下か」そう訊ねられ、ぼくは曖昧に頷いた。彼女は口の右端を上げ、にっと笑った。なんとなく馬鹿にされているような気がした。
「盆栽が好きなのか」彼女は問うた。あまり詳しくないと、ぼくは正直に答えた。
「こんな風に枝を針金でひねくり廻して、大樹に成るものを小さな鉢で育てるのは、随分畸形的だと思わないか」
 そう云って、自分が丹精したであろう鉢植えを指差した。そういうのが日本の美学なんじゃないのかとぼくが云うと、美学とは恐れ入ったな、と笑った。
 きれいな顔立ちなのに、少年のようにしか見えない。短髪だった所為かも知れない。セーターにジーパンという、あまり女らしい恰好をしていなかった所為もあるだろう。幾つだ、と訊ねられ、二十五だと答えると、「同い年か」ぼそっと彼女は云った。
 意外な言葉だった。高校生か大学に入ったばかりくらいかと思っていたのである。
「紅梅の花が散った。花が終わるとお礼肥えと云ってな、肥やしをやらねばならない」木も疲れるのだろうな、と彼女は、足許の鉢植えを見下ろしながら呟いた。
 カイというのは随分変わった名前だと思い、字はどう書くのか訊ねてみた。
「花に李と書く」
 彼女はぶっきらぼうに答えた。大抵は読み間違いをする——そう云って、少し笑った。
 仕事はしていないのかと訊ねたら、身体が弱い、とだけ返事をした。慥かに痩せて腺病質な感じではあった。
 名を訊ねられて多田武志だと答えると、たがみっつも並ぶのか、と彼女は子供のように笑った。誰にでもそんな話し方をするのかと訊ねたら、何処かおかしいか、と逆に問い返された。
「手が空いているのなら、この台を動かすのを手伝ってくれ」
 彼女は庭の真ん中あたりに据えられているスチール台を指差した。盆栽の鉢を降ろし、庭の端に移動させた。邪魔だと云われてな、と彼女は苦笑いした。普通の花は好きじゃないのかと訊ねたら、弱々しい草花は好かんとだけ答えた。

   +

「娘はあまり外にも出ずに、いい年をして男ともつき合わないんだよ」
 翌日、上司は云った。体のいいお見合いだったのか。まあ、あの言葉遣いでは男も近寄ってこないだろう。
 そんな親心だったのか、彼女が望んだのか、週末になると時折一緒に出掛けるようになった。これまでつき合った女のように、ショッピングに連れ廻されたり、頓知気な娯楽施設へ行きたいとは云わなかった。ぼくが家電売り場でコンピューターを長々と見ていても、文句ひとつ云わない。
「パソコンひとつでも山ほど種類があるんだな」
 そう云って感心したように眺め廻していた。
 何が慾しいとか何処へ行きたいとか、旨いものが食べたいと謂うようなことは、まったく口にしなかった。まあ、彼女の服装ではレストランのディナーをご馳走しようにも、丁重に断られるだろうが。
 慾しいものはないのかと訊ねてみたら、今のところ必要なものはない、ときっぱり云われてしまった。あれこれねだられるのには閉口するが、此処まで物慾がないとこちらの気が抜ける。
 彼女は仕事帰りのサラリーマンくらいしか行かないような、薄汚く狭い居酒屋でも焼き鳥屋でも、平然と這入っていった。もの珍しいのか、壁に貼られた品書きなどをきょろきょろ見廻していた。
 外出しないと父親が云っていたくらいだから、こんな夜の街を連れ廻していいものだろうかと心配したが、上司は、「あの娘もやっと街歩きの楽しさが判ってきたようだ」君がついてるから安心出来るしなあ、と呑気そうに云っている。
 まあ、二十五才の娘がいくら身体が弱いとは謂え、近所の散歩と盆栽の手入れだけが趣味ではあんまりと云えばあんまりだし、親としても相手は部下だし、九時か十時頃には返していたので安心していたのだろう。
 喰いもの屋以外では、市営の水族館や動植物園へ行った。実に安上がりである。
 水族館に行った時には、はじめてなのかあちこちの水槽をひとりで見て廻り出したので、見失ってはいけないと思い、追い掛けて手を握った。彼女はきょとんとした顔をしてぼくを見上げていたが、「勝手に歩き廻るなという訳か」とくすくす笑い、白く細い指でぼくの手を握り返した。
 ぼくは、はじめて女の子とデートをする中学生のようにどきどきした。
 彼女は水槽の中の魚たちを(それこそ、メダカからイワシなどでも)、きれいなものだな、と呟いて眺めていた。ナポレオン・フィッシュには釘づけになっていた。そして、あれは喰えるのか? と訊ねてきた。一番大きな水槽に、小魚から海鷂魚、鮫まで一緒くたにされているのを見て、喰い合ったりしないのか、と呟いた。
「飼育係が餌をやってるから食べないよ」
「必要以上に喰いまくるのは人間だけか」彼女は苦笑した。
 彼女が一番惹かれたのは海月のコーナーだった。半透明の体でふわふわと浮遊し、中には紫色に発光するものもあった。
「きれいだな、こんな形は人間の頭では思いつくことなど出来ないだろう」
 放心したように水槽を眺める彼女に、アメリカのスラングで使い捨てられたコンドームのことを『ジェリーフィッシュ』(海月)と呼ぶのだとは、おくびにも出さなかった。当たり前の話だが。
 水族館を出ると、彼女は「楽しかった」と、ひと言云った。たかが800円の入場料なのに。市営だからイルカのショーもない、どちらかと云うと学究施設を体裁よく一般公開しているだけだ(客が楽しめるように工夫は凝らしてあるが)。
 烟りが濛々と立ち籠める焼き鳥屋で草臥れたおっさんたちと並んでカウンター席に腰掛け、砂肝の串に歯を立てながら、「何故、肉がこう串にへばりついているんだ」と、文句をつけていた。砂肝は食べ慣れている者でも櫛から外すのに難儀する。
 箸で外せば、と云ったら、わざわざ喰いやすいように串に刺したものを無下には出来ない、と彼女はなんとか食べていた。

      +

 そんな風にぼくたちの交際は続いていた、と思っていたのはぼくだけのようだった。
「いやあ、君のおかげで男性に免疫が出来たらしくてね、娘が見合いをすることになったよ」そう上司がぼくに告げた。これ迄どれだけ勧めても、釣書きも写真も見ずに断っていたんだがな、と続けて何か云っていたが、耳に入ってこなかった。
 見合いだって?
 二十五才なんて嫁き遅れでもなんでもないじゃないか。今時、三十過ぎても結婚せずにバリバリ働いている女なんか幾らでも居る。
 電話を掛けるのも憚られるような気がしたが、思い切って土曜日に彼女を誘った。知り合って半年も経とうと謂う、八月ももう終わりの頃である。
 はじめて自分の狭いアパートに彼女を招いた。1DKの小さな部屋だ。彼女の家は豪邸とまではいかないが、立派な一戸建てである。男としてこんな住まいを見せるのは、どうにも居心地が悪く羞恥心を覚えた。
 ひとり暮らしの男の部屋になど這入ったことはないだろうに、興味深そうに見廻してはいるものの、警戒心は微塵も抱いていないようで、効率よく出来た部屋だな、と呑気に云っている。
「婚約したんだって?」
 見合いをしただけだ、と彼女はあっさり答えた。
「まだ結納も交わしていない。それは婚約とは云わないだろう」
「相手の男が気に入ったの」
「嫁にゆけば皆同じだ、婢女と同じ扱いをされる。女とはそう謂うものだ」
 彼女は幽かに笑って答えた。誰もがそんな扱いをする訳じゃない、と返したら、
「してもいないことが何故判る」
 そう云って彼女はそっぽを向いた。
「そもそもおまえになんの関係があるんだ」
 彼女は若干ぶっきらぼうに云った。それを聞いたぼくはカッとなって、「大ありだよ、花李はぼくとつき合ってたんじゃないのか」と、つい声を荒げてしまった。彼女は少し不思議そうな顔をして、つき合うと云うのはどう謂うことだ、と云った。
「一緒に食事したり……、たいしたとこには連れてってやらなかったけど、出掛けたりしただろう」
 彼女はにやりと笑い、嫉妬しているのか、と云った。
「嫉妬と謂うのは字の如く、女の感情だと思っていたが」
 ぼくは彼女の両肩を摑んで強引に口づけた。薄目を開けると、彼女はこちらをじっと見つめている。
「斯う謂う時は、目を閉じてくれている方がいいんだけど」
 こんなことにも仕来りがあるんだな、と彼女はくすくす笑った。そう云われて、最初の時と同じく馬鹿にされているような気分になった。
「で、こうすればおまえの気が晴れるのか」
 晴れないよ、と不貞腐れて答えたら、子供のように拗ねるんだな、と彼女は笑った。壁に凭れかかって座り込んだぼくの隣に彼女も腰を降ろし、
「わたしもおまえのことは好きだ」
 と云った。吃驚して彼女の顔を見つめたぼくに、如何にも慣れていない様子で、彼女はぼくの唇にそっと口づけた。そのまま押し仆して仕舞いたくなったが、ダイニングテーブルも置けないような狭い台所でそんなことをしたら、軽蔑されてしまうに違いない。それに彼女は、体が弱いと謂うことだった。ことに及んだら息絶えてしまうかも知れない。
 夏で、半袖の臙脂色のシャツから伸びる白い腕には青い血管が浮かび、花李は折れそうに細かった。
 翌日、彼女から電話があった。縁談の話は先方に断ったそうだ。
 次の土曜日、彼女はぼくのアパートを訪ねてきた。部屋に上がるなりぼくの背中に腕を廻すと、
「おまえは玩具を取られた子供と同じだ。わたしのことだってなくなった玩具と同じように忘れる癖に、やんちゃを起こしたな」
 そう云って笑った。花李を玩具扱いになんかしない、これまでだってそうだったし、これからもそんなことはしないよ、とぼくは云った。
「男はいつまで経っても子供だと云うがな……。おまえがそう云うのなら、信じる振りだけでもしよう」そう云ってぼくの胸に顔を埋めた。
 ぼくは服の上からでも感じられる、彼女のごつごつした背骨や肋骨を撫でていた。こんな小枝のような体を力一杯抱きしめたら、ぽきんと折れてしまうだろう。
 彼女は、親に多田武志とつき合っているから見合い話はもういい、と伝えたらしい。父親に呼び出され、つき合っているのは知っていたが真剣な交際だとは思わなかった、と云われてしまった。
「娘は体が弱い。こういう曖昧な云い方をするのは、特に何処が悪いという訳でもないからだ。検査をしても体温や血圧は低いが、脈拍の数値は高い。貧血気味だが病気というほどではない。病気に罹りやすいが免疫不全という訳でもない」だから余計と厄介なんだよ、と云った。
「何処かが悪いとはっきり判ればそこを治せばいい。ただ体が弱いとなったら、予防するしか手だてはない」それでもいいのかね、と云われ、構いませんとぼくは答えた。風邪に罹りやすかったり胃腸炎になったりするくらいなら自分にだって対処出来る、と思ったのだ。
 それから、向こうの親が彼女のことで何かを云って来ることはなかった。つき合って一年も経っていないし、そのうち手を焼いて離れて行くだろうくらいに思っていたのかも知れない。彼女は冬のはじめと終わりにひどい風邪をひいて寝込んだが、それ以外は何もなかった。休みに見舞いに行くと両親とも丁寧に応対してくれた。
「風邪如きでこの為体とはな」と、彼女は苦笑いしていた。

   +

 知り合って一年が過ぎ、それでも婚約とか結婚といった話は上がらなかった。女が二十六と謂うのは適齢期かも知れないが、男にとってはまだ早いと思われていたのかも知れない。
 だいぶ暑くなってきた頃、珍しく彼女に頼まれて花木センターと謂う処へ行った。所謂、大きめの園芸店である。彼女は盆栽のコーナーであれこれじっくり見ていた。
 鉢から枝が垂れ下がっているのを指し、
「これは懸崖という。崖っぷちに生えるように見立てているんだ」
 と云った。幹がすっとまっすぐ伸び、下枝がないものは『文人木』と云うのだそうだ。
「こうやって石に植えつけるのは、見た通りのまま『石附』と云う。ごつごつして多少凹みのある岩石を使う。植え込み易いからな。平石にすれば鉢代わりにもなる」渓谷や岸壁に生えているのを模している訳だ、と説明した。それは文人木や根連なりに比べて荒々しく、男性的な感じがした。
 彼女が語るのを聞いて、盆栽は海外でも人気があるらしいことを知った。人工的な庭園や色とりどりに美しく彩られた花壇を作っても、こんな小さな世界に自然を再現しようと謂う発想が珍しかったのだろう。きれいだったのは『サバ幹』と呼ばれる白く枯れた幹から枝が伸び、青々とした葉を茂らせた真柏の鉢だった。
 彼女に云わせると、自然界でも斯う謂う状態なるとのことである。
 何かを買いたかったという訳ではなく、ただ眺めに来ただけのようだった。何か買わないのかと訊ねたが、「今は植え替え時ではないから鉢も要らないし、新しいものを買うつもりもない」と答えた。
 帰りの車の中で、盆栽がベランダで育てられるかどうか調べてみた、と彼女がひとりごとのように呟いた。庭があるじゃない、とぼくが云ったら、「おまえの甲斐性で庭つきの家が買えるとは思えないからな」と彼女は笑った。
 これはプロポーズなのだろうか。ぼくと一緒になるつもりなのかと訊いたら、迷惑ならいい、とだけ答えた。迷惑な訳がない。が、庭つきの一戸建てが買えないのも情けないながら事実である。
 十一月の終わりに、互いの両親と共に六人で会食の席を設けた。
 彼女は黒いワンピースを着て、まるで葬儀にでも列席するような出で立ちだった。スカートを穿いているところをはじめて見た。
 ぼくとしては披露宴などして慾しくなかった。友人らしき人間が殆ど居ない彼女とぼくとでは招待客のバランスが取れないだろうし、彼女としてもそんな見世物みたいな事はしたくないだろう。ぼくの親は渋ったが、彼女の両親が納得させた。その間、花李は殆ど何も話さなかった。
 春のはじめ、花李と出会った頃に、ぼくらは入籍した。親戚や知人には引っ越しの挨拶を兼ねる、婚姻した旨を知らす通知をしただけだった。

 新しいアパートに移り住んだ日の翌朝、彼女はベランダに並んだ盆栽に水をやっていた。声を掛けても返事をしなかった。はじめてのことばかりで戸惑っていたのだろう。それでも会社に出掛けるぼくに向かって、いってらっしゃい、と云った。そんなことを云われたのは何年振りだろう。
 帰ったら「おかえりなさい」と迎えてくれるのだろうか。ちゃんとあのアパートの部屋で待っていてくれるだろうか。そんなことを心配しているうちは、ままごとの延長だと云われても仕方がないな、と思った。
 それでも、小さな鉢の上に太い幹を据える樹のように、小さなアパートの一室でミニチュアの家庭が作れればいい。
 ぼくはそう思った。

画像1


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?