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海を見る

海岸までのゆるゆるした下り坂を、連れ添う女と歩く。
彼女が奇妙な化粧をしているので、ぼくは恥ずかしくて下を向き、
他人の振りをして歩いた。
ぼくが彼女を恥ずかしく思っていることを、
そのことを彼女が本当は知っていることを、
ぼくが知らない振りをすることを、
それを向こうも承知していた。
女はそれでも責めるような素振りを見せず、
黙って隣をつかず離れず歩いていた。
ぼくはそれをすまないと思うのだが、
恥ずかしさが先に立ち、
顔を上げられずにいる。
彼女は前を見て歩く。
「ほら、もう向こうに海岸線が見えますよ」
彼女はそう云ったが やはりぼくは俯いた侭 聞こえない振りをする。
耳に栓が詰まっているかのように振る舞う。
そうして女を無視する。向こうもそれを気にしない素振りをする。それはなんと温情なことであろうか。
ぼくの態度がどれだけ非道なことであるか、知っているけれども、
聞こえないふりをして、
ただ、歩いてゆく。
返事もせず、それでも女が語りかける言葉を耳に待ち侘び、
それを愉しんでいる。
そんな自分の心持ちを恥じて、疎ましく思うのだ。

女はことごとに、何かしらを語らい、
それを聞き流しながら砂浜を歩く。
何故、女の語ることを思いやれないのか。
何故、女に対して何かを語りかけられないのか。

それは、

ぼくが何者でもないからなのだ。
ぼくは彼女が饒舌に語るように、
他者に開陳出来るものが何もない。
自分の思うことを、
どうやって彼女のように無邪気に、
(つまりは己れの無知を恥ずかしげもなく晒すことを)
他者に恐れず語れるかを知らない。
何が何を、どうして、そんなに、
何をどうすればいいのか、
ぼくは、ぼくを取り巻くものをすべからく、
きれいに明言することが出来ない。
自分がどうであるか語ることが出来ないように、
君をどう思っているかを、明言出来ないのだ。

雲が空を覆い、
湿気が体に纏わりつき、
潮の香りが漂いだし、
波の音が近づいてくる。
女は靴を脱いで駆け出し、ぼくはやっと顔をあげた。
ぼくらは砂浜を踏みしめ、堤防を乗り越え、彼女は砂地を駆けてゆく。
海は干涸びた瓜の皮に似た色で、
なにやら奇妙にうねっている。
膝まで海水に浸かった女は無言の侭、
はりついたような笑顔を此方へ見せ、
後ろ向きにまっすぐにのばした体を、棒仆しの棒のように後ろ向きに仆れた。
女はそのまま海水に埋もれ、姿も沈み、微かな泡が浮かんで消えた。
それきり、女は水面から見えてこない。
そして、 
ぼくはもと来た道を、ゆるゆると歩いて戻った。


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