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吸血鬼考。

 子供の頃は怪談にとても弱く、日本の昔話しに出て来る子供騙しの妖怪変化すら怖かった。
 それがいつからか、妖怪方面に興味を抱くようになった。今ではそう謂ったお伽草子の世界だけでなく、現実の犯罪に関して調べたり、ひとが目を背けるような屍体写真も平気で見られるようになった。

 で、吸血鬼である。
 モデルは ルーマニアの「ウラジミール串刺し王」となっているが、それも定かではない。ただ、火のないところに煙りは立たぬ。生き血を求めて近在の農家の娘を勾引し、その血を飲んでは浴びてはして、若さを保とうとした高貴の女性もいたようだ。
 それについては『ベルサイユのばら』(池田理代子作)の番外編に、詳しく描かれている。
 ひとの生き血を吸って、心臓を杭で刺されぬ限り生き続ける、と謂う設定は、最初にひとびとの口に登った頃は、身分の高い者が支配する下賎な者どもから見栄えの良い娘を攫い(或いは金子で買い上げ)、弄んだ揚げ句、飽きてしまえば棄てた、と謂う現実が下敷きになっているのではないかと思われる。
 その後、幾足りかの年月を経て、「吸血鬼」の形がバラバラなりとも造り上げられた。

1)生き血を吸うことで生きている。
2)この世の者ではないので、鏡には映らない。
3)十字架、聖水、日光、大蒜に弱い。
4)生き血の吸い方によって、吸血鬼になるものと、ならない者がある。
5)生物に於ける一般的な性行為はしない。

 そしてわたしが気づいたのは、吸血鬼はカトリックの世界にしか存在しないことだった。
 プロテスタントやユダヤ教、仏教徒の吸血鬼は居ない。
 吸血鬼の凡ては、カトリック系なのである。
 キリスト教は派閥が幾つもに分かれているが、一番戒律が厳しいカトリックの世界の裡でのみ、吸血鬼は黒い翼を広げ、暗躍して居るのである。
 簡単に説明すると、カトリックの坊さんと謂うのは『エクソシスト』などに出て来る、黒い立ち襟の服に白いカラーをつけ、精進に精進を重ね、婚姻などしない。プロテスタントの坊さんは、普通のひとと同じ恰好をしている。そして、結婚もすれば、子供も成す。
 喩えば、ユダヤ教。
 神が世界を作り、イスラエルという場所を永住の地として約束されたひとびとである。ユダヤ教はキリスト教と同じ「聖書」と謂う本の中の「旧教」、つまり「旧約聖書」を信じている。だが、ユダヤ人にしか通用しない。そして、ユダヤ人の吸血鬼は存在しないのである。
 これは何故か。
 まあ、この辺りはまだ曖昧な考えしか持っていないので、今後の課題となる。ただ、旧約聖書に「イエス・キリスト」は存在せず、ユダヤ人はクリスマスなどに祭りごとはしない。勿論、復活祭も。
 キリスト教と謂うのは分派があれこれあり、ギリシア正教、ロシア正教、英国国教会、等々。新興宗教も合わせれば、数え切れないほどある。
 はっきり云ってしまうと、土着宗教は伝道出来ない。身近な例で云うと、「神道」を日本人以外のひとに布教するのは困難を極める。仏教やキリスト教が世界に広まったのは、互換性があり、汎用的なものだったからではなかろうか。この、汎用性があるかないか、と謂うのも重要な問題になってくる。

 ——閑話休題。

 吸血鬼になる人間は大抵、身分の高い人物が多い。爵位がついているか、地主とか。そして、村人の美しい娘が勾引かされ、ある者は喰われ、ある者は吸血鬼と化す。
 蝙蝠に変身するとか、大蒜の匂いを嫌うと謂うのは、あくまで民間伝承であろう。噛まれると移ると謂うのは、昔話の狼男と、恐らく当時流行した「黒死病(ペスト)」から来ているのかも知れない。
 現実的に考えれば、これは身分を利用した異常性格者の連続殺人となる。だからこそ、江戸川乱歩や横溝正史などに慣れ親しんだわたしにもすんなり受け入れることが出来たのではないか、と自己分析する。
 わたしは分析が好きなのだ。

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