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春の日和

 ふたりで中央区の方へ出掛けた時、電車の中で影郎がいきなり仆れたことがあった。どうすればいいのか判らなかったが、彼を支えて乗客が空けてくれたベンチシートに腰掛けさせた。しかし意識を失ったままで、ひとはそれ以上、手助けはしてくれない。
 冷たいものである。迷惑そうに此方を眺めているだけで、声も掛けてこない。騒がれても困るが、この様子に少し腹が立った。次の駅に差し掛かった頃にぼんやり目を開けた影郎の肩に手を掛けて、「どう、大丈夫?」と訊いてみた。
「……あ、おれ、仆れたの」
「うん、いきなり。いつもこうなの?」
「ごめんね、でも平気だから」
「次の駅で降りよう。混んでるから」
「ごめんね」
「謝らなくていいから。あ、着いた。まだよろよろしてるなあ。ほら」
 ホームでしゃがみ背を向けたら、「いいよ、そんなの。ひとが見るよ」と云って影郎は躊躇ったが、まだふらふらしているので「いいから、早く」とおぶらせた。
「紘君、意外と背中広い」
「影郎に比べればね」
 背中の影郎は、二十三才の男とはとても思えなかった。細くて軽くて、子供のようである。まあ、軽いといっても四十キロ以上あるのだが。地下鉄の構内を大人の男を背負って歩いているものだから、すれ違う者は皆、振り返ったが、そんなことはどうでもよかった。
 見るくらいなら、どうにかしようと思わないのか。世間の薄情さを身に沁みて感じた。誰か知らない人間がいきなり仆れても、遠巻きにするだけで手出しをしない。目を背けて知らぬ顔をするなら兎も角、じろじろ見ているのだ。
 その好奇心に苛立ちを覚える。今、此処に、自分ではどうにもならない状態の青年が居るというのに、誰も手を差し伸べようとはしない。自分がそうなった時、誰も手を貸さなかったらどう思うだろうか。薄情だと思う筈だ。
 その薄情な人間たちが、世間の大多数なのだ。影郎がぼくの勤務する図書センターで仆れた時、彼と親しい木下亮二は取るものも取り敢えず駆けつけ、彼を抱きかかえ救急車をすぐさま呼び、病院までつき添った。
 彼のような人間が稀有だというのだろうか。それでは悲しすぎる。そんな世の中であって慾しくない。
「重くない?」
「ぜんぜん。米袋五つ分もないくらい」
「五つも背負ったことあるの?」
「ないけど、たぶんそれくらいじゃないかな。米って十キロでしょ」
「五十キロもないけど、医者で測った時は四十五キロだったかな。今はもうちょっと増えたかも知れない」
「増えた方がいいよ、痩せ過ぎ」
「紘君も痩せてるじゃない」
 太ってはいないが、影郎に比べればごく普通の体格である。ぼくは一七七センチだが、彼は一六五センチしかない。もの凄く小さい訳ではないが、体型が貧弱なのでもっと小柄に見える。それがコンプレックスらしいのだが、ものをあまり食べないのだから成長しなかったのは無理もない。
「こんな風に仆れるのはよくないなあ。精密検査とかした方がいいんじゃない?」
「去年したけど」
「結果はどうだったの」
「なんでもなかった。ただの貧血」
「体質っていうか、遺伝なのかな」
「遺伝じゃないと思うよ、貧血のひとなんか居ないもん」
「なんだろうね。増血剤とか飲んでるの」
「効き目がないから今は処方されてない」
「そうか。どうしたらいいんだろう」
「どうにもならないんじゃないかな。もう慣れてるから、そんなに気にしなくていいよ」
「そういう訳にはいかないよ、何かあったらどうするの。今日みたいに電車で仆れるならまだひとが居るからいいけど、誰も居ない処で仆れたら野垂れ死にだよ」
「誰も居ないとこなんか行かないって」
「夜中だと居ないよ」
「まあ、そうだけど。紘君、心配し過ぎ」
「心配せざるを得ないじゃない。ああ、やっと外に出た」
 駅の外は春の朧な陽射しに包まれている。地下の人工的な灯りとは違うその健康的な色に、正直ほっとした。軽いとはいえ、四十五キロの体を背負って歩くのは結構疲れる。そう思っているのが伝わったのか、「もう降ろして」と影郎は云った。
「大丈夫?」
「うん。おんぶされたのなんか、子供の時以来だよ」
「ぼくもひとを背負ったのは、はじめてだよ」
「ごめんね」
「謝らなくてもいいけど、何かなくしたりしてない?」
「……うん」
 さすがに男なので、女の子のようにあれこれ持ってはいない。財布も携帯電話も鍵もポケットに入れている。寒い季節はポケットが増えるから、男は普段の外出に鞄を持って行くことは先づない。ぼくも仕事に行く時以外は、夏でも手ぶらである。
「子供のお守りをしてる気分」
「ひどいなあ。おれ、そんな頼りない?」
「頼りないよ、二十三には思えない」
「年齢詐称はしてないよ」
「まあ、そんなことしても意味ないけど、それだったら余計に駄目じゃないか。年相応の行動をしなきゃ」
「してるよ」
「してない」
「紘君が落ち着きすぎなんだよ」
 落ち着いて温順しく生真面目だと、子供の頃から云われていた。だから影郎のような屈託のない奔放な子に惹かれたのかも知れない。自分がなりたくてなれなかった部分をすべて持っているような気がした。
 子供の頃、親や教師の云いつけを破り、好き放題にしている者らを羨望の眼差しで眺めていた。あんな風に出来たら、どんなに爽快だろう。四角四面で、融通のきかない自分が疎ましかった。
 きっと影郎は何にも囚われず、自分の好きなように生きてきたのだろう。それがぼくには羨ましい。眩しくて目が眩みそうだ。だからぼくは、彼に惹かれるのだろう。
「タクシー拾ってアパートに戻ろうか」
「おれが払うよ」
「いいよ、影郎君は無職なんだから」
 そう云ったが、彼はぼくの手に札を握らせた。責任感だけはあるらしい。が、この時は華奢で子供のような、ただ頼りない子だとしか思っていなかった。もしかしたら、最後までそう思っていたのかも知れない。
 駅前なのでタクシーは簡単に捕まる。後部座席に乗り込むと、影郎は怠そうに身を沈めた。可哀想だが、ぼくにはどうすることも出来ない。薬なんかは持っていないのかと訊ねたら、薬で治るものじゃないからと彼は云う。
 心底、ぞっとした。
 薬で治せない病気があるのだ、と認識させられたのだ。路傍で仆れ臥しても誰も助けてくれない。治す薬もない。こんなことがあっていいものだろうか。
 取り敢えずぼくのアパートへ連れてゆき、一息ついた。
「ちょっと横になったら? まだ青い顔してるよ」
「大丈夫だって、もう平気。ずっと座ってたんだから」
「そうかなあ。何か飲む?」
「お茶でいい」
「判った。日本茶しかないけど」
「いいよ」
 アパートは2DKで、台所は食卓を置けるほどの広さがある。一室を居間に、もう一方を寝室にしていた。下町のような工場街の一角で、家賃はさほど高くない。大学時代から此処に住んでいる。
「これ飲んだら、もう帰った方がいいんじゃない? 車で送ってくから」
「うん、これ以上迷惑かけられない」
「迷惑なんて思ってないけど、何かあったらご家族に申し訳ないし」
「家族っていっても親は外国に居るし、左人志は従兄弟だよ」
「それでも居るには居るんだから。あんまり心配掛けちゃ駄目だよ」
 車で彼を送って行ったが、家には誰も居ないと云うので上がらせてもらった。男ふたりで暮らしている割にはきれいにしてある。
 影郎の家は、北地区の住宅街にあった。はじめて訪れるその家は、よくある建売住宅のようで、二階建てだった。彼の父親は海外へ仕事で赴任しており、母親もそれについて行っている。大学入試で身を寄せていた従兄弟が、家を守る形になっているらしい。
 影郎はその左人志という名の従兄弟に全幅の信頼を寄せているらしく、話を聞く限りでは銀行に勤めており、かなり確乎りした人物のようなので、家に居る間のことは安心していられた。
 通された畳の部屋には仏壇と違い棚のある床の間があった。典型的な日本の家だ。ぼくの実家もこんな感じである。
 窓から見える庭は殆どが畑で、季節柄何も実っておらず、葉もの野菜ばかりだった。外を眺めていると影郎がお茶を持ってきて、「あの畑ねえ、おれが作ったの。十八くらいの時に」と云った。
「これをひとりでやったの?」
「うん。ホームセンターで鍬買ってきて、ひとりで耕した。凄い筋肉痛になったよ」
「そりゃそうだろうね。なんで畑なんか作る気になったの」
「なんとなく。閑だったからかな。料理するのが好きだから、その材料を作ってみたかったのかも知れない」
「はあ、それだけでこれだけのもんを作っちゃうとはね。意外と熱意があるんだ」
「熱意かどうか判んないけど、今のところ飽きないね」
 座卓について、仏壇を眺めた。位牌はなく、花が飾られているだけである。
「仏壇には誰も祀られてないの」
「うん。うちは分家だから、まだ誰も死んでない。庭に蛙の墓があるけど」
「蛙? 飼ってたの」
「飼ってたっていうか、幼なじみがペットの餌にするのをこっそり持ち帰って世話してたんだけど、一週間くらいで死んじゃった」
 見せてもらうと、その墓は小さな石が据えてあるだけのもので、湯呑みに花が差してあった。子供の頃に死んだ蛙に花をいまだに手向けるなんて、随分可愛らしいことをするものである。よほど悲しかったのだろうか。
「こんなにしてもらえたら蛙も喜んでると思うよ」
「蛙が喜ぶのかなあ」
「喜ぶよ。普通はこんな風にしてもらえないから」
「左人志が阿呆とちゃうか、って云ってたけど」
「そんなことないよ、優しいんだって」
「優しい訳じゃないけど、捉まえなきゃもっと長生きしただろうし」
 そう云いながら、影郎は石ころが据えられているだけの蛙の墓に、手を合わせた。なんだか痛ましいような光景である。この子は屈託がないように振舞いながら、実は繊細で、その名の通り影を持っているのではないだろうか。
 そのことに誰も気づいていないのが、とても悲しく思われた。勝手な想像かもしれないのだけれども。
 三時間ほどで帰ったが、アパートに戻ったら彼からメールが来た。
「今日は迷惑をかけてごめんなさい。また今度誘って下さい」とあった。そのメールはいまだに削除していない。


 街は夜に包まれ 行きかうひと魂の中
 大人になった悲しみを 見失いそうで怖い
 砕かれていくぼくらは
 星の名前も知らず 灯りを点すこともなく
 白い音に埋もれ 黴臭い毛布を抱き
 想いを馳せる
 夜空に

 ひとりいつもの道を歩く 目を閉じて
 不器用な手で組み立てる 汚れたままの欠片で
 いつか出会える日まで
 そこに君が居たことを
 すべてのひとが忘れようとも
 きっとずっと覚えている
 必ず
 約束しよう

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