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結婚

 左人志の従兄弟が不慮の事故で亡くなって、半年が経った。ひき逃げをしたトラックの運転手が捕まった時は、それまで見たこともないような荒れた状態だったけれど、暫く経つと落ち着いてきて、元の穏やかな彼に戻っていった。
 五つ年上の彼に出会ったのは、大学に入ったばかりのことである。友人が参加していた山岳部のOBで、紹介してもらったのがきっかけだった。喋る言葉のイントネーションが違うので出身地を訊ねたら、岡山だと謂うことだった。普段は方言で喋らないようにしていたが、親しくなると岡山弁と謂うか、わたしからすると関西弁にしか思えない言葉遣いになった。心を許してくれたのかな、と思った。
 彼の周囲の人間に会うことはなかった。秘密主義と謂う訳ではないが、自分のことはあまり話さないひとだった。従兄弟のことは聞いていたが、年と名前を教えてもらっただけで、あとは何も知らなかった。わたしよりひとつ上で、影郎と謂う変わった名前だった。
 そのひとが亡くなり、無理を云って葬儀に列席したが、やはり誰にも紹介されなかった。喪主に近い立場だったので、忙しく立ち働いていたからかも知れない。どちらにしても、彼が仕事の休みの日でもそんなに会ったりせず、わたしが学生時代からアルバイトをしていた花屋でフラワーコーディネーターとして働きだしたら、殆どすれ違いの日々だった。
 もしかしたら、わたしのことはその従兄弟と同じように、妹としてしか見ていなかったのかも知れない。

「左人志、サングラス掛けると別人みたいだね」
「そおか」
「温厚そうじゃなくなる」
「ほたら外すわ」
「いいよ、かっこいいから」
「かっこよかないじゃろ」
 彼はサングラスを外して、グローブボックスに放り込んだ。古い車。日産のスカイラインである。これの前に乗っていたのも旧車だった。古い形の車にしか魅力を感じないらしい。服装もトラッドなものを好む。
「もう立ち直った?」
「まあな。いつまでもくよくよしとったかて、どもならんでな」
「まだ若かったからね」
「二十七やでなあ。病気やったら覚悟も出来たけど、交通事故じゃけえのう」
「そうだね、遺体の確認も出来ないほどじゃね」
「あれはほんまに思い出しとうないわ。佟子なん見たら、卒倒しとったで」
 影郎君は、撥ねられたと謂うよりは「轢き潰された」ような状態だったそうである。彼は、塵芥屑みたいやった、と云っていた。ただの肉の塊だったと。
「家はどうするの? このまま住むの」
「ああ、影郎の親に頼まれとるでの。こっちとしてもありがたい話じゃけえ」
「彼処に居たら辛いんじゃない?」
「そんなことないよ、あいつの菩提も弔ったらなあかんしな」
 従兄弟が家を出て友人と暮らすようになってから、時々、彼の家を訪れるようになった。それまで家に誘うことなど一度もなかった。そもそも自分のテリトリーに立ち入らせることなどなかったのだ。従兄弟の不在がそれほどまでに淋しかったのだろうか。
 庭の殆どは畑になっていた。影郎君が作ったという。彼は料理が好きで、それが嵩じて畑まで作ったのだそうだ。その時、はじめて写真を見せてもらった。左人志は写真を撮るのが好きで、山に登る時も重い撮影機材を担いで行くらしい。誘われたことが一度もないのでわたしは登山をしたことがない。
 影郎君は彼には似ておらず、華奢な体つきで顔も少年のようだった。弟のように可愛がるのも判るような気がした。近くに住んで居たらしく、よく帰ってくるので、冷蔵庫にはたいてい彼が持ってきた料理が入っていた。わたしが作るものより美味しかった。
「一緒に住んでたひと、彼は大丈夫なの」
「草村君か。えらい落ち込んじょるけえど、そのうち立ち直るやろ。大人なんやし、確乎りした子ぉじゃけえな」
 影郎君と暮らしていた男性は繊細な感じのひとで、やはり彼のことを弟のように可愛がっていたそうだ。左人志はおかしな関係じゃないかと心配していたらしいが、後にそうではないことが判った。わたしも会ってみて、実に真面目で誠実で、嘘を云うようなひとには思えなかったし、同性愛嗜好のある人間にも見えなかった。
「お葬式の時、真っ青な顔して、今にも仆れそうだったけど」
「そうじゃのう。まあ、今は店の準備しちょるで、忙しく働いとったら気が紛れるじゃろ」
「あんな真面目そうなひとにショットバーなんかやれるのかな」
「向かんとは思うけえど、どうしてもやりてえ云いよるでのう。難しいことやないで大丈夫じゃろ」
「わたしも手伝おうか」
「ええよ。おまえかて忙しいんじゃけえ」
「忙しくなんかないよ、ただの花屋なんだから」
「あっちこっちで生けたりしちゅうやねえか」
「それはそうだけど、時間の都合はつくよ」
「ええて、店のことはわしと草村君で出来るし」
「手が足りなかったら云ってね」
「判った」
 影郎君がやっていたショットバー『ハカタヤ』へ行くことはなかった。あまり治安の良い処ではなかったと謂うのもあるが、左人志が行って慾しくなさそうにしていたからである。何故、自分の周囲に拘らせたがらないのか判らなかったが、何かを隠している訳ではないようなので、敢えて訊ねたりはしなかった。


「どうだった、お店」
「繁盛しとったで。ちゅうても、十二、三人しか這入れんような処じゃけえどな。なんやでかい図体の外人が来て、吃驚したわ」
「お葬式に来てたひと?」
「そう。アイルランド人なんじゃと。影郎が十六、七ん時、半月くらい帰って来えへんかったことがあってのう、その時、世話しとったひとらしいんじゃけえどな」
「そんなことがあったの」
「まあ、あいつは面倒ばっか掛けよったでのう」
「でも可愛がってたじゃない。ちょっと妬けたな」
「なんで妬くんじゃ」
「なんか、わたしより影郎君のこと優先してたから」
「そんなことないて。そら僻み根性じゃて」
「僻んでなんかいないわよ、時々不安になるだけで……」
「何を不安に思うん」
「あんまり会えなかったし、本気なのかよく判らないし」
「判らんて、こんだけつき合うとったら考えとることくらい判るじゃろうが」
「判らない、なんで結婚してくれないの」
「まだそんな気になられへんで、しゃあないやんか」
「左人志、もう三十一でしょ、結婚してもいい年じゃない。もう八年もつき合ってるのよ」
「佟子、まだ二十六やないか。影郎より下やぞ」
「男と女は違うわよ」
「そらそうじゃけえど、結婚焦る年ちゃうがな」
「このままずるずるつき合ってたら、お婆さんになっちゃう」
「婆あになる前にちゃんと結婚するわい」
「当てにならない」
「信用せえ」

 信用していない訳ではない。責任感は強いし、穏やかでとても大人なひとだった。しかし、決して自分の領域には踏み込ませない。会う時もわたしの学校の近くか勤務先の近くの喫茶店ばかりだった。
 一緒に何処かへゆくこともあまりなかったし、わたしは実家に居たので、そこへ来ることも滅多になかった。両親は彼のことをとても気に入っていたが、わたしは遠いこともあって左人志の親に会ったことはない。
 銀行を辞めた時も、従兄弟の店を手伝いだした時も、再就職した時も、何も相談されなかった。どんなことも自分で決断し、他人を頼ることはしない。臆病ではないが、わたしとの交際も非常に慎重で、知り合ってから一年間、手も握らなかった。此方がまだ十八才だったからかも知れないが、淋しい気がした。
 週末に彼の家へ泊まりに行くと、翌日出勤するわたしを車で送ってくれる。ちゃんと店のひとにも挨拶してから帰ってゆく。オーナーも従業員も良いひとだと云っていた。
「今時珍しいくらい真面目なひとねえ。つき合って長いんでしょ、結婚しないの?」
「まだその気になれないらしくて……」
「遊木谷君、幾つだっけ」
「三十一です」
「もう結婚してもいい歳じゃない? 何を躊躇ってるのかしら」
「よく判らないんですけど、わたしのこと、子供だと思ってるんじゃないですか」
「五つ違いじゃない、ひと周りくらい違うならそう思うかも知れないけど、それくらい普通でしょ。わたしの旦那も五つ上よ。もっとも、あんなに確乎りしてなくて、ちゃらんぽらんなひとだけど」
 友人も結婚している者はひとりも居なかった。今は皆が晩婚で、結婚しないひとも多く居る。わたしもそうなるのだろうか。もう、彼に結婚の話を持ちかける気にはなれなかった。自分の考えを曲げるようなひとではない。わたしを嫌っているとは思えないので、それだけで満足しなければならないと思った。


 そんな風にして、更に四年の月日が経った。
 いつものように土曜日、彼の家へ行ったら、珍しく近所に住む甘利さんが来ていた。彼は影郎君の幼なじみで、左人志と同じ年である。三年前に結婚して、娘がひとり居た。仏間で何か話していたらしく、わたしもそこへ通された。
「やあ、佟子ちゃん。久し振りだね」
「こんにちは。珍しいですね、お参りに来たんですか」
「まあね。左人志がちょっと相談があるって云うし」
「相談て、なんですか」
「結婚したいんだって」
「なんでおめえが云うんじゃ」
「いいじゃないか。どうせおまえ、おれが云わなきゃぐずぐず先延ばしにするんだろ。十一年もつき合っといて、佟子ちゃんの気持ちも考えろよ」
 いきなりな話で驚いてしまった。そんなことは仄めかしもしなかったのだ。彼の顔を伺ったが、普段と変わらず、照れている訳でも困惑しているようでもなかった。ほんとなの、と訊ねたら、ほんと、とだけ答えた。
 それからは、トントン拍子に話は運んだ。互いの両親を交えて会食をし、その時やっと彼の親に会った。左人志によく似た、真面目で明るいお母さんと、少々不器用そうだが、実直な感じのお父さんである。
 長く離れて暮らしている息子に会えたのが嬉しいらしく、母親はあれこれと左人志に質問していた。それを煩瑣がることもなく、ひとつひとつにちゃんと答えていた。円満な親子関係のようである。わたしの親ともすぐに打ち解けて、自分たちの結婚式の話に花を咲かせていた。
 ふたりで結婚式場を選び、そこで衣装も借りることにした。左人志は、こんなチンドン屋みたいな身装をしたくない、と云っていたが、もともとスーツが似合うのでおかしくはない。
 ダークグレーや濃紺の背広を着ているので、結婚衣装のような明るい色は慣れておらず着心地が悪いのだろう。装飾のまったくない白いシャツと、ごく普通の明るめのグレーの上下にして、あとはわたしのウエディングドレス選びにつき合ってくれた。
「頼むで赤や紫のにしんといてくれや。宝塚みたいじゃけえ」
「そんなの選ばないって。白かアイボリーにする」
「肌、露出するのもやめて慾しいな」
「じゃあ、左人志が選んでよ」
「ウエディングドレスなん、どれもこれも同じに見えるで判らんわ」
「今、あれこれ注文つけたじゃない」
「まあ、そうじゃけえど、佟子の服は佟子が好きなん選び」
 慥かにどれもこれも代わり映えがしないように思えたが、胸が大きく開いたものや、肩が出るものはわたしも着たくなかったので、首の詰まったものから選ぶことにした。胸元は開いているが、上にボレロを羽織るものがあって、それを着たら、左人志も「ああ、それええわ」と云った。
 他にもいろいろ着てみたが、ボレロのものが一番良かった。スカートの部分にレースがあしらわれ、ところどころにパールビーズが鏤められた、繊細な感じのするドレスだった。それに合わせて、縁に花模様のレースがあるミドルベールを選んだ。フェイスアップタイプなので、花をあしらえばいいだろう。ブーケも自分で作るつもりだった。
 婚約期間らしきものがなかったので、結婚指輪だけ買うことにした。百貨店の宝飾品売り場で選んだのだが、やはりこれもどれがいいのか判らず迷ってしまった。左人志もするので、シンプルなものがいいと思ったが、シンプルなものばかりで悩む。
「どれがいい?」
「ほんなもん判らんて。自分の好きなん選びゃええがな」
「だって、どれもあんまり代わり映えしなくて……」
「ほたら何にしたってええんちゃうか」
「ゴールドとプラチナ、どっちがいい?」
「ゴールドは成金みたいじゃけえ、プラチナがええな」
「じゃあ、このなんにもデザインされてないのにしようかな。これなら左人志もいいでしょ」
「ああ、それなら男が嵌めてもおかしないのう」
 指輪は結婚式まで左人志に預けることにした。
 そうして、慌ただしく準備をして、春のある日、わたしたちは結婚式を挙げた。披露宴には草村さんも来ていた。彼は左人志よりひとつ下だったが、まだ結婚しておらず、影郎君と暮らしていたアパートに住み続けている。おめでとうございますと云って微笑む顔には、もう悲嘆の陰は見受けられなかった。
 影郎君の実家は、結婚を機に彼の両親からこれまでのお礼とお祝いを兼ねて譲られた。そんなことをしてもらう訳にはいかない、と左人志は固辞したが、海外に赴任している叔父夫婦は、もう帰国するつもりはないから受け取ってくれと云った。税金は払うと云ったのだが、それも此方で済ますと断られた。彼に相当感謝しているのだろう。
 左人志は大学に通う為に厄介になったのだが、その一年後に叔父夫婦は海外へ行って仕舞い、それからずっと家を守り、従兄弟の面倒を見ていた。
 ふたりの生活がどうなるか判らないが、予想がつく未来など面白くない。たくさんの発見をして、たくさんの失敗をして、良いことも悪いこともすべて栄養にして、心の幸せ太りになってやろう。

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