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人物裏話——ペリカンホテル事件篇。

 後に亮二自身が鬼畜な行為だったと述べている(反省はしていないようだ)のがこの事件。このふたりにはいろいろ事件があった。「清世ちゃんリンチ事件」「菓子折りデート事件」「清世ちゃんファースト・キスぶち壊し大笑い事件」「北海道お留守番事件」いろいろある。
 そのうちのひとつがこの「ペリカンホテル事件」。
 亮二が二十才、清世二十二才(という年齢で、季節が冬から初夏というのが判る)。はっきり書くと二月。彼女は就職も決まり、亮二の方はバイトも学校も休みの日の出来事である。
 彼は滅多に行かない中央区にある繁華街の買い物に、珍しくつき合って(と云っても、月に一、二度は一緒に行っている。清世が行く頻度に比べて珍しく、という意味である)やっていた。
 が、ごじゃごじゃひとが居るのにいい加減うんざりしてきて、さりげなく、さりげなく脇道に逸れて行った。ひと通りが少なくなってやれやれ、と一息ついたのが一見高級アパート、何遍見ても高級アパートにしか見えない「ペリカンホテル」の前だった。わざとではない。
 そしてペリカンホテルといっても、鈴木いづみの小説とは関係ない。ついでに記せば、上条グループの経営である。こんな変な名前がついているのも明良が名づけた所為だった。更に蛇足ついでに、明良が住んでいたホテルは「セントラルホテル」。規模としては新市最大で、リッツとかヒルトン並み。
 目が悪い癖に目敏い彼は、金色のプレートに「Pelican Hotel」と刻印されているのをしっかり見た。見た上で、彼女が「どなたかお知り合いが住んでいらっしゃるんですか?」と訊ねたのをいいことに、「そうそう」と連れ込んだのだ。はっきり云って詐欺である。
 ただ救いと思えるのは、此処が所謂「連れ込み宿」ではなく、ごく一般的なホテルだったことである。したがって「ご休憩」もなければ一泊三千八百円などという阿呆な価格設定でもない。運良く(彼女にとっては運悪く?)亮二の懐は温かだった。
 何故ならば、先月買ったTokaiのギターの(分割)金を親父に返すのと、限度を超えた値引き分を自腹を切って支払った牧田に返す(分割)金をおろしたばかりだったのである。断っておくが、楽器は高額である。否、安いギターは一万円でも購えるが、それで満足出来るのは中学生くらいであろう。
 そして手持ちの金を情慾に費やしたとしたら、父は許すだろうが牧田は許さない筈。何故なら彼は清世に想いを寄せているからだ。
 と謂う話は非常にややこしくなるので端折って下さい。それで続きと謂えばこんな感じで……。


 部屋に這入る時鍵を使うので、「お知り合いの部屋なんですよね?」と、漸く疑問を抱いた清世である。その答えは、
「んな訳ねえじゃん、ホテルだよ」
 とあっさりしたものだった。
 普通なら「騙したのねー」ドカッ(鞄で殴る音)という展開になりそうなものだが、そうならなかった。逆にそうならないことに拍子抜けした亮二である。フツーのホテル(ビジネスホテル等)より格が上。それ以外のホテルに泊まったことがないからよく判らん(ああ、今は無き名古屋の名門「都ホテル」に女性の金で泊まったことがある)。一般的なホテルなので一泊する旨を伝えると、彼女は「木下さんとホテルに泊まるね」と母親に電話した。
 彼は卒倒しそうになった。気の毒なのはこっちかも知れない。
 あっさりホテルだと白状した(なんてもんではないが)亮二もさすがに良心が咎めたのか、「騙したの怒ってる?」と訊ねた。子供かよ。
 いいえと首を横に振った清世だが、
「木下さんの行くところなら何処でもついて行くので、嘘はつかなくても良かったと思います」
 と、くらくらするようなことを云って退けた。すげえ。
 まだ開いてなかったドアに、思わずへばりついた亮二だった。
 この純真さに打ちのめされ、「帰ろうか」とまで云わせた清世ちゃんは凄い。そのまま帰ってもチェックインした以上、金は払わなければならないというのに。
「市内でホテルに泊まるなんて経験したことがないから楽しそうです」
 と、彼女は鍵は開いていたドアからさっさと部屋に這入ってしまった。亮二が後ろから抱きついて「ごめん」と云っても、どうして謝るんですか、と余裕ぶっこいてた清世ちゃんって何者?
 亮二が謝りたいから、と云ったら、「じゃあ、好きなだけ謝って下さい」と、くすくす笑っていた。やはり年上だからなのか、そこで何が起こるか何をされるか判らないほどの世間知らずだったのか。
「ごめんなさい、すみません、謝ります、堪忍して下さい、許して下さい、二度としません」
 云うだけ云って笑い出した亮二だった。本気で謝っていたのかどうかは謎である。
 ラブホテルではないので椅子が二脚と丸卓子があった(この構図はロンドンのビジネスホテルを参考にした)。そこでなんとか落ち着きを取り戻した亮二である。 くどいようだがラブホテルではないので、翌日の午前十時がチェックアウトなのだ。這入ったのは午後二時半。
 室内は二月なので勿論暖房が効いているが、彼女に「暑くないですか」と云われるまでコート(例の受験の時、かーちゃんが買ってきたポール・スミスの濃灰色のショートコート)を着たままだった。ホテルに入った際にマフラーは取っていた。なにしろ下に着ているのが長袖TシャツとVネックのセーターだけという軽装なので、首巻きくらいしておかないと寒すぎるのだ。
 彼女がコートふたり分を箪笥擬き(なんというのだ? あれは。海外のホテルには必ずあったクローゼットの小さいやつ)に掛けているうちに、やっと元の状態になった亮二だった。何故そんなに動転したのかというと、彼女が余りに平然としていたからである。ただそれだけ。
 窓は大きくはあるが腰高で、十五センチくらいの框があった。何となくそこに腰掛けて、あー、煙草がない、と、クローゼットの傍に居た清世に向かって取ってくれと頼んだ。男は冬になるとポケットが増えるので、用がない限り(学校とか会社とか)手ぶらである。
 彼のコートのポケットから煙草とライターを取り出したはいいが、彼女は卓子の近辺で止まってしまった。ナニ故に、と手招きしても頑としてそこから動こうとしない。これはどうも高所恐怖症らしいと判断し、投げて寄越せばいいと云った。
「ものを投げつけるなんて出来ません」
「投げつけろなんて誰が云ったよ、放って寄越しゃいいだろうが」
「出来ません」
 きりがないので亮二の方が窓から離れて彼女の処へ行った。卓子にあった鍵の番号でやっと此処が十一階だということ(正確には十二階。一階はグランドフロアー。因みに最上階ではない)を認識した。
「おまえ、高所恐怖症か」
「…………」
「清世がよく行く百貨店だってこんくらいあんじゃねえか」
「あそこは窓がありません」
「はー、なるほど」
 納得はしたが、実験してみるのが好きなので、何処まで近づけるか試してみようと思い立った。窓は腰高(だいたい七十五センチくらい)で、嵌め殺しなので譬え蹴躓いても落ちて死ぬことはあるまいと踏んだのである。取り敢えず二メートル半までは大丈夫だった。二メートルまでもなんとか行けた。が、それから先へはどうしても行けない。
「何が恐えんだよ」
「高いからです」
「おまえのよく行く店だって、高えとこにあんじゃねえか」
「だから、窓がないからいいんです」
「じゃあ、それも窓だと思うな」
「……窓です」
「窓じゃねえっつってるだろ」
「窓です……」
 という阿呆のような押し問答の末(こんな喋り方をしているが、怒っている訳ではない。彼はどちらかというと小声で話す方である)、清世を米俵のように担いで(抱き上げて、ではなく)窓際まで運んでゆき、奥行き十五センチのヘリに腰を降ろさせ、自分はさっさと卓子に戻った。鬼のようなことをするものである。
「恐いか」
「恐いです」
「恐い訳あるか」
「……恐いです」
「恐くなくなるまでそこに居ろ」
 と、本当に窓際の清世と三時間睨めっこをしていた亮二であった。気が短いんだか長いんだかよく判らん奴である。おかげで彼女はビルならば高くても平気になった。彼としても、ジェットコースター好きになられては困ったであろう。
 その三時間に交わした言葉の殆どが、上の五行の繰り返しだった。何を考えているのだろうか、このふたりは。
 このホテルはイギリスのB&B(漫才コンビではない。ベッド&ブレックファースト、つまり寝床と朝飯)方式なのだが、それより格が上なのでルームサービスがある。今時はラブホテルでもあるらしい。へんなの。
 三時近くから三時間、つまり六時まで窓際と卓子の処の椅子という離れた位置で「恐いか」「恐いです」とやっていたのだ。はっきり云って、馬鹿。
 煙草が切れたので、亮二は彼女をそのまま放置して買いに出ようとしたら、清世は慌ててついて行こうとした。これで恐怖症が克服されたのである。アホくさい。
 そこのコンビニエンス・ストアーまで煙草買いに行くだけだから、と云っても一緒に行こうとする。そうするといちいちフロントに鍵を預けなければならない→面倒臭い。そこまではっきり云うほど阿呆ではないので、ついて来たら此処に置き去りにして戻ってこないという、訳の判らない脅しを掛けて云うことを聞かせた。
 よく判らんふたりである。ハタチと二十二才で何をやっとるんだ。
 十五分ほどで戻って来たのだが、彼が戻るまで扉の前にずっと佇んでいた清世である。戻って来たら勝手に扉が開いたので、思わず「うわあ」と声を上げた亮二だった。そりゃ驚くだろう、自動ドアじゃないんだから。
「もしかして、ずっとそこに立ってた?」
「はい」
「なんで」
「戻ってくるのを待っていました」
「……鍵持たずに外に出られるよりましか」
 オートロックなので鍵を部屋に忘れたら、フロントに云って開けてもらわなければならないのである。
 コンビニエンス・ストアーへは行ったが、何も頼まれなかったので煙草しか買ってこなかったという気の利かない男だった。断っておくが、避妊具だけはきっちり用意していた。なんで! そんな子に育てた覚えはないわよ! いや、紳士の嗜みでしょう。
 因みに、ラブホテルに常備してあるゴム製品には従業員の悪戯で穴が開いていることがあるらしい。働いていたことがあるひとから聞いたので恐らく本当だと思う(ラボで働いていた時の上司だったエロ親父)。恐いですねー、恐怖ですねえ。
 それは置いといて、こんな処のルームサービスなど高いに決まっているのに、ということを云いたかったのだ。もうじき七時で腹も減ってくる時間である。亮二は特に減らない体質なのだが。
「飯は此処のが喰いたいのか」
「食べてみたいです」
「なんぼすんの」
「……シーフードサラダが千六百円」
「なんじゃ、そりゃ。馬に喰わせるほど出てくんのか?」
「普通の量だと思いますけど」
「んじゃあ、伊勢海老でも入ってんのか」
「どうなんでしょう」
「酒は? もしかしてワインしかないとか巫山戯たことをぬかすんじゃねえだろうな」
「ビールもありますよ」
 ほっと胸を撫で下ろした亮二だが、300ml程度のグラスビールが九百円だった。安い方だが、香具師よりも酷いぼったくりである。
 清世はアボカドとバジルソースのパスタと白ワイン、亮二はハイネケンのみ(本当に腹が減っていなかったのだが)を頼み、どうにかこうにか普通に朝を迎え、ホテルを後にした。幾ら払ったかは内緒にしてあげよう。親父と牧田へも滞りなく金を返した。結果的にはめでたしめでたしとなった訳である。

 この僅か半月後に清世の両親が父親の会社の慰安旅行で北海道へ二泊三日の旅行に出掛ける際に、娘をひとりにしておくのは不安だと亮二に留守宅を預けた。はっきり云ってこの親たちはどっかおかしい。彼もそう思ったし、それを聞いたメンバーふたりも爆笑しながらつくづくそう思った。
 これが「お留守番事件」である。

<追記>
 清世が「市内でホテルに泊まったことなんかない」と云っているが、亮二が就職するまでふたりとも実家暮らしだったので、このあと何度もホテルには泊まった。ラブホテルを利用するのが厭だったらしく、いつもビジネスホテルである。ペリカンホテルは割合高いので二度と利用しなかった。
 因にダブルで二万六千円(あ、ばらしちゃった)。宿泊する客と長期滞在の客が半々。長期滞在の客の為にキッチンのある部屋が用意されている。それは一週間で五万二千円と、かなり安い。

 亮二のギターはこれだ!

・アリア・プロ2の青いソリッドギター、テレキャスタイプ(糞安い中古品で、三万くらい)
・アリア・プロ・2のダークサンバーストのセミアコ(やはり糞安い中古のレスポールタイプ。五万くらい)
・モーリスのチェリー・サンバーストのセミアコ(廉価品ではないが、中古なのでそんなに高くない。レスポールタイプ)
・トーカイのチェリーサンバースト(親父に借金して買った。二十八万くらい。レスポールタイプ)
・グレコのサンバースト(シリアルナンバーがついたプレミアもんなのだが、牧田に値切りまくって買った。三十五万くらい。レスポールタイプ)
・テスコのクリーム色のソリッド、テレキャスタイプ(十八万を十三万に値切り、牧田に三万払わせた)
 これは大学卒業時の所有ギター。大学に入ってから毎年買っているのが判る(モーリス以降)。因に三十八になった時点では一本も手放していない。牧田を東和楽器に就職させた際には、ギブソンのレスポールを買っている。
 中古なれども、レスポール・カスタム。八十万近くしたので、買った後は抜け殻のようになっていた。これは彼が唯一所有する海外メーカーの純正品。当然、ブラック。
 国産ギターで追加されたのはSugi Guitars二本。国産エレキギター界では最高峰と云われるメーカーで、その品質にはフェンダー社も舌を巻いたという。両方ともレスポールタイプ。ひとつはブラウンシュガーバースト。もう一本はチェリーサンバースト。
 あとは拘りの国産メーカーFIJIGENが一本。なにしろ、メーカー名に日本の誇り、「富士」が入っている。これはレスポールタイプのダークサンバースト。この三本は、中古のギブソンに近いくらいの値段がした。
 基本的にレスポールタイプのサンバースト色のものを好む(レスポールタイプは背の低いひとには向かないから恰度いいのか……)。が、何故かストラトタイプになると単色(アリアの青とかテスコのクリーム色)になる。
 家で弾く時は若い頃に買ったセミアコか、親父のジャズギターを使っている。そろそろセミアコを買うだろう。若しかしたら第二の海外メーカーとして、Hagstromを買うかも知れない。Hagstromは、スエーデンのメーカーである。兎に角、見た目がいい。見た目では選ばないか。
 ライブではアリア、モーリスの上記三本は使わない。本人曰く、がらくた。Sugi Guitarsを買うまではトーカイとグレコをよく使っていた。テスコの登場回数は非常に少なかった。ギブソンもそれほど難有がって使うことはなかった。やはり国産ギターが手に馴染むようである。
 ギタリストとしては所有本数が少ないかも知れないが、サラリーマンなので致し方ない。the cageの鈴木玲二など三本しか持っていない。それも、兄貴がボーナスで買ってくれたギブソン、フェンダー、グレッチ。これ以上要らない、と玲二が云わなければまだ買い与えたであろう。おい、にいちゃん、甘やかし過ぎだぞ。


<追記>
 これはホームページの「裏話」のコーナーに書いたものである。後に、ちゃんとした文章(ちゃんとしてはいないか)に組み入れたので、没にした。
 おまけに書いた亮二のギターについては、中学生が買える安いもの、高校生が買える安いもの、大学生が買える程度のものを念頭に置いて調べた。後に買ったものについては、社会人が買えるものを考えて選んだ。レスポールタイプが多いのはわたしの趣味である。
 玲二のギターについては、誰もが知っている有名メーカーのものを並べた。中古で七十万位するものばかりなので相当な高級品である。ギブソンのレスポールは『缶ビールとナッツで』に出てくる。この題名は二重の意味を込めてつけたのだが、云うまでもなく缶ビールは玲二、ナッツは亮二である(ナッツは馬鹿、気違いという意味の俗語)。因に、フェンダーは当然ストラト。グレッチはテネシアン。the cageの音楽性からすると、ギブソンのレスポールは向いていないのかも知れない。亮二も同じか。ギターがもの凄く煩瑣いから。

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