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水にうつりにけり

 そんなことなど、嘘かも知れない。いや、嘘か本当かなんてどうでもよかった。
 ぼくが何を気にしているかというと、三年の井田紗枝が妊娠しているという噂を耳にしたからだ。ぼくが通っている高校は所謂進学校で、どいつもこいつも受験のことしか頭にないようなお固い生徒ばかりだった。男女交際くらいは普通の高校生と変わらずしているだろうが、妊娠となると話は違ってくる。
 それに、彼女は何処からどう見てもそう謂う事態に陥るタイプではなかった。四角四面の糞真面目な生徒、とい謂う訳ではなかったが、ごく普通の、これと云って目立つところのない女の子だったからだ。
 笑うと子供のようなあどけない顔になる彼女が、ぼくは好きだった。
 高校に入って環境に少し慣れてきた頃、休み時間に校舎から出たところで(なんの用事があったのか忘れてしまったが)、頭の上から水がざばっと降ってきた。 校舎を見上げると、三階の窓から髪の長い女の子が呆然とぼくのことを見下ろしている。暫くすると、バケツを片手に下げた彼女が息咳ってやってきた。
「ごめんね、かかっちゃった?」
 かかっちゃったも何も、びしょ濡れのぼくを見ればそんなことは一目瞭然だろうと思ったが、なんだか可笑しくて吹き出してしまった。彼女もつられて笑い出した。それが井田紗枝だった。まるでドタバタコメディのような出会い方ではあるが、ぼくはその瞬間、彼女のことが好きになってしまったのである。
 そして、顔を会わすとどちらからともなく話し掛けるようになった。夏休みにも何度か会ったりした。と謂うのに、新学期がはじまった途端、ひそひそと皆が噂していたのが彼女の妊娠話だった。
 本人に訊く機会は何度もあった。でも訊けなかった。彼女はそんな噂を知ってか知らずか、いつもと変わらずぼくに話し掛けてきたし、男の影などまったく感じさせなかったのだ。
「どうしたの、こんなとこに皺寄せて」
 彼女がぼくの眉間をひとさし指で突いた。まさか君が妊娠しているかどうか悩んでいた、とは云えないので、中間テストのことを考えていたと誤魔化した。「井田さんは受験校、決めたの」と話を逸らしたら、彼女はうーん、と首を傾げて、
「進学しないかも知れない」と、この学校では有り得ない選択肢を口にした。やはりあの噂は本当だったのか、と思っていたら、
「洋一君は何がしたくて大学に行くの」
 彼女はぼくの顔を覗き込むようにして訊いてきた。何って……、とぼくは口籠ってしまった。そう云われてみると、いい大学に行くことだけを考えていて、それから先のことは考えていなかった。
 その晩、自分は何がしたくてこんなにしゃかりきになって勉強しているのだろうか、と考え込んでしまった。

 翌朝、校門の前で井田さんに会った。彼女は突然ぼくの腕を摑むなり、「逃げよう」と駅の方へ走り出した。何がなんだか判らず、蹴つまずきながら腕を引かれているものだから、ぼくももと来た道を走って逆戻りする羽目になった。
「逃げようって、どういうこと」
 走りながら彼女に訊ねた。彼女は唄うように「つまんない、つまんない、つまんない」と云うだけだった。
 電車に乗り込んで、膝に手をつき息を整えて、もう一度「逃げようって、どういうこと」と彼女に訊いた。
「学校から、受験から、つまんない噂から」彼女はくすくす笑って云った。
 適当に乗り込んだのは、海へ向かう電車だった。市街を抜けると地上に出て、窓の景色が明るくなった。車内も空いてきて、ぼくらは緑色のシートに腰掛けた。こんなことをしてぼくはどうなってしまうのだろうか、と不安になってきた。
 登校する生徒が大勢居る中で、妊娠していると噂されている女の子と堂々とエスケープしてしまったのだから、ただでは済まないだろう。頭の中でぐるぐる考えていたら、彼女は鞄の中身を通路にぶちまけて、ついでにぼくの鞄も取り上げ同じようにした。
「なに考えてるの」思わず声を上げたら、「こんな物になんの意味があるの?」と云って、彼女はぼくを見遣った。意味なんかないといえばないし、あると謂えば大ありだった。教科書やらファイルなどをそのまま通路に残して、彼女はまたぼくの腕を取り、別の車両へ向かった。もう、どうとでもなれ、と謂う気分になってきた。
 ぼくらは結局、終点まで電車を降りなかった。無人の駅の精算機に定期券を入れ、乗り越し分をカードで支払った。潮の香りがする。海が近いのだろう。
 駅の前はただ木が茂っているだけである。店も人家もない。すぐ脇の小さな踏切を越して反対側へ行くと、雑草の生えた空き地の向こうに用水路のような川が流れており、覗くと小さな魚がかたまって泳いでいた。道を隔てたその先には、防風林らしい松の木がごつごつした枝を伸ばしている。その更に向こうに砂浜が広がっていた。
 ひとっ子ひとり居ない。ゴミが打ち寄せられていて、決してきれいな浜とは云えなかったが、広がる青い海を見たらそんなことなど、どうでもいいような気分になった。
 彼女は繋いでいた手を離して、波打ち際の方へ駆けて行く。
「意味があるのはこれよ、洋一君。判る?」そう、ぼくに向かって大声で云った。靴と靴下を脱ぎ捨て、彼女は海水に足を浸した。その姿はまるで子供のようである。
「洋一君は皆が云ってること、なんであたしに訊かないの」
 噂なんてしょうもないから、とぼくは答えた。
 嘘、と彼女は云った。
 それがぼくの言葉に対してなのか、噂に対してなのか、判らなかった。
 彼女は波を蹴散らして歩いた。ぼくは少し離れてその後をついて行った。 スカートが濡れるよ、と声を掛けたが、彼女はそんなことなど構わないといった感じで波と戯れている。彼女は制服のポケットから携帯電話を取り出すと、海に放り捨てた。
 ぽちゃんと音がして、飛沫が少し上がった。
 ばーか、と彼女は小さな声で云った。それでも、自棄になっているとか苛立っているようには見えない。本当に、海に遊びに来た子供のようにしか見えないのである。
「洋一君もやってみる?」彼女はくすくす笑いながら、ぼくの方に振り返った。やらないよ、と答えたら、「やっぱりね」と笑った。意気地のない人間だと思われているのだろうか。
 波打ち際から離れると、彼女の濡れた足は砂まみれになった。唐揚げに出来そう、と云って楽し気に彼女は笑っていた。ぼくも思わず笑ってしまった。
「午ご飯どうするの」と訊いてみたら、魚釣って食べよう、と云った。無理だよ、と云ったら、「当たり前じゃん」と彼女はまた笑った。本当にどうしようかと思っていたら、ごつごつした岩の向こうに建物が何軒かあるのが見えてきた。
 疲れたのか、彼女は砂浜にべたっと座り込んだ。ぼくにどうして慾しいのだろう——こんな誰も居ない海に連れ出して、何がしたいのだろう。
「靴、取りに行かなくちゃ」
 彼女はぼくの手を握って立ち上がり、黙って砂浜を歩き出した。
 足についた砂をハンカチで払い、靴下はポケットに入れ、黒いコインローファーを履いた。そして、また岩場が見える処までゆっくり戻った。肩を並べて歩きながら、彼女はきれいな貝殻なんかは落ちてないんだね、と呟いた。
 きれいな貝殻とは、どんな貝殻だろう。鮮やかな色をしているものか、珍しい形をしているものか。そうした貝殻は、土産物屋に売っているだろう。しかしそれらは、外つ国から仕入れたものだ。
 彼女が慾しいのは、そんなものではない。彼女が慾しいものは——。
「お腹空かない?」と訊ねると、あそこにコンビニがある、と彼女は指さした。慥かにその方角にコンビニエンス・ストアーの看板が見えた。ゆっくりその店に向かって歩きながら、洋一君は好きな子居ないの? と、彼女は訊いた。
 居るよ、と答えたら、「誰?」と面白そうに訊いてきた。井田さん、と小さく云うと、知ってた、と彼女もぽつりと呟いた。知ってたならなんで訊くの、と云ったら、黙って首を振った。
 髪が揺れる頸を、ぼくは視詰める。
 ふたりで砂の上を歩く。
 岩の上を歩く。
 アスファルトの上を歩く。
 踏みしめる地面はそれぞれで、気持ちは、ばらばらに彷徨う。何処へも辿り着かない、そんな気がした。それでも。
 コンビニエンス・ストアーで弁当を買って、黒い岩の上でふたり並んで座って食べた。ちっとも美味しくなんかない、ぱさぱさに乾燥した、まるで興味のない他人の生活のような。
 彼女はぼくを気にもしないように景色を観る。どうと謂うこともない、なんでもない海辺の景色を観る。その瞳に何が映っているのか。それをきれいだと思っているのか。
 その視界にぼくは入っているのか。
「海が青いね」
 割り箸を海の方へ差し向けて、彼女は云った。
 こんなに晴れてるからねと云うと、不思議そうにぼくを見つめる。
 海水が空の色を反射してるんだよ、とぼくが説明したら納得したように頷いた。秋の空は嘘みたいに真っ青で、雲ひとつなかった。
 太陽はまだ傾いておらず、ぼくたちの影は短かい。これからどうするつもりなのだろう、と彼女の横顔を伺ったが、何を考えているのかさっぱり判らなかった。
 彼女がポケットから小さな壜を出した時は、正直云って吃驚した。毒薬かと思ったのだ。よく見ると、それはマニキュアの壜だった。これ、どうしたの、と問い質したら、「万引きした」とあっさり答える。彼女は薄いピンク色の粘液のようなものが入った壜をぼくに渡す。
 まるっこい硝子が太陽の光りを反射して光っていた。
「それ、なんだか判る?」
「爪に塗るやつじゃないの」
 ぼくがそう答えると、彼女は黙って指を差し出した。少し日焼けした手。まだ生活に荒れても節くれ立ってもいない、すんなりした指。その先にある爪は、几帳面に短く揃えられている。
「こんなことに意味があるの」
 そう訊ねると、学校の外には意味がいっぱい詰まってるの、と笑う。そう云う彼女の顔を覗き込んだが、鬱屈した感情は読み取れなかった。
「壜の口で筆先を一旦、平らに揃えるようにするの。そうすると塗るのに恰度いいくらいになるから」
 云われた通りにやってみると、筆先からどろりとピンクの液体が壜の内側を伝っていった。
 ぼくはあまり器用な方ではないので、爪からはみ出して指に塗ってしまったりした。彼女はその様子をじっと見つめている。両手の指、十枚の爪をなんとか塗り終えると、ぱたぱた手のひらを振りながら、彼女は立ち上がった。
「洋一君、ぶきっちょだね」ぼくを見下ろして彼女は笑った。
「あたしのこと、ほんとに好きなの」
「うん」
「なんで?」
 水をぶっかけられたから、と云ったら、彼女は声を上げて笑った。でも、それは嘘じゃなかった。彼女が三階の窓からバケツの水をぶちまけなかったら、ぼくはその存在にすら気づかなかっただろう。こんな風に学校をさぼったりせずに、皆と同じように受験のことだけ考えていたに違いない。
 教科書も、ファイルも、学校も、すべて彼女が捨ててしまった。何処か、遠くへやってしまったのだ。
 彼女は薄いピンクに染まった爪を翳して見せた。
「ほら、桜貝みたい」

 秋の陽はつるべ落とし、と謂うだけあって、ただ何もせず砂浜を歩いているうちに、夕暮れになってしまった。これからどうするの、と訊ねたら、彼女は沈みかけた太陽の方を指さし、「あそこに行こう」と云った。そこにはオレンジ色に光る海が広がっている。
「本気で云ってるの?」
 彼女は笑いながら、「嘘だよ」と云って駅の方へ走って行った。少しほっとしてぼくは彼女の後を追い掛けた。
 来る時通った、駅の傍の小さな踏切がカンカン鳴っている。
 彼女は止まらなかった。
 赤い電車が、最終停車駅だからゆっくり通過すると、彼女の姿は見えなくなっていた。

 ぼくはどうすればよかったのだろう。彼女は何を云いたかったのだろう。何がしたかったのだろう。赤い電車の向こうに消えた彼女に会うことは二度となかった。

 そうしてぼくは、日常の世界へ戻った。
 学校では暫く井田小枝の永遠のエスケープについて話題になったが、やがて誰も彼女のことを口にしなくなった。ぼくの生徒手帳のなかで彼女は変わらず微笑んでいたが、それも色褪せてゆくのだろう。
 大学に入り、就職して、結婚して、彼女は思い出のひとつになってしまっても、あの日の海の情景は繰り返しぼくの裡に蘇ってくるだろう。
 忘れたくない感傷とともに。

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