秋のあしおと


 
いくつもの思いがあって、記憶の断片がある。
 
それは例えば晴れやかな空のように、子供だった頃のわたし達は確かに夏の時間を生きていた。でもその一方で、暗くひそやかに澱のように心のどこかに凝っているものも確かにあった。
 
大学も後期に入った頃、中学の頃の友人達が同窓会をやろうと言い出した。
一軒家のこぢんまりとしたレストランを貸し切りにして行われたビュッフェスタイルの同窓会には4、50人ほどが集まった。ひとしきり、皆で懐かしがったり、近況報告をした後で、それぞれのグループになんとなく落ち着いてから、桜井が言った。
 「覚えてる? 1年の時、イズミっていたろ」
「どっち?」
「ほら、苗字なのか、下の名前か」
「下の名前がいずみっていた?」
「C組じゃない?」
「あー、違う。ほら、2学期になったら、いなくなってた方」
「A組だね」
「シオはAだったよね?」
恵にふられて、わたしは振り返る。丁度、和哉と大学の映画研究会の話をしていた。売れるものが必ずしも名作とは限らない。そんなものは数字の前には吹っ飛ぶよ。ブレヒトよりスターウォーズ。売り上げ至上主義。そんな話をしていたときだったが、彼らの話も耳に入っていた。
「誰?」
「和泉のこと」
「彼女が何?」
「あ、いや、あいつの母親って、スナックのママだったってこと」
「そうなの?」とさゆりと徳子が声をあげた。
「そうそう、で、さ、それが原因だったわけ、転校の」
「そうなんだ」
「え、でも、青森の母親の実家に行くことになったって、そういう話じゃなかった?」
「違う違う」
「えー、でも、そんなことで転校する?」
桜井はちょっと得意そうな顔をして、「お前ら、何にも知らないんだな」
「何々、何かあったの?」
「知ってるなら言いなさいよ」
「もう時効でしょ?」
こういう時の目の輝きには独特なものがある。かつての同級生の知られざる一面、それはタレントの私生活への好奇心と大差ない物には違いないが、実際にはどこか棘を含んでいる。
 
和泉はきれいな女の子だった。さらさらのロングヘア。口角の上がった唇。富士額。アーモンド形の双眸。どちらかといえばおとなしめな子だったけど、その姿から男子だけでなく女子達も彼女の存在は意識していた。
「顔が派手な割には性格は地味だったよね。ウラがあったってこと?」
「派手だった?」
「っていうかモード系?」
無遠慮に徳子やさゆり、恵が口々に言う。
「おまえら、悪口言う時、目が光ってんぞ」とすかさず桜井。
「悪かったわね。だけど、あたしはいじめてなんかいないわよ」
「そうだよ、誰もいじめたりしてないから」
そう、確かに。だけどさりげなく、彼女と組むのを避ける女子達がいた事も事実だ。徳子達のように。ただ、それは意地悪というよりなんとなく和泉の隣に並ぶのが嫌だっただけの話だ。
中学というのは残酷な季節でもある。
思春期の、一番自意識過剰になる時期に、同じ制服を着せられるのだ。大した化粧もできないし髪形の工夫もたかが知れてる。でも、だからこそくっきりと、否応なしに外見の個性は際立つ。そして、可愛い子とそうでない子。男子達がそういう物差しで時に大っぴらに、時に陰で、女子達を測っている事を絶えず意識させられる。
 
すらりとした立ち姿の和泉。それは植物に例えるなら、カラーに似ていた。バラとかユリとかじゃない。中学生にとってのそういう分かり易い美ではない。アイドル好きの徳子やさゆり達にすれば本当は彼女を「美人」と形容するにはどこかしら抵抗感をもっていたのだと思う。だけど、男子達の彼女を見る視線の中に、自分達には絶対に向けられない何かを感じ取ってしまうのも確かで、それが彼女達をイラつかせもしていたのだろう。
「行こ」
と麻衣子が声をかけてくる。
「あ、何々、どこ行くの」と工藤。
 「オシッコ」とわたし。
 ふき出しかける桜井と、「あー、女子って必ず一緒にトイレだよなー」「いくつだよ」との声を受けながら、麻衣子とわたしは彼らから抜ける。
和哉は何も言わず、窓に映る皆の姿を見るともなしに見ていた。
 
化粧室の脇を抜けて、裏の非常口から、外へ出る。
こぢんまりとした駐車場。
外気が心地良い。
麻衣子はバッグから、タバコを出すと、「吸う?」と訊いてくる。
「大丈夫。この店のオーナー、父の知り合いだから」
「そっか、場所のアレンジは麻衣子なんだ」
彼女からメンソールのたばこを1本、もらう。
ふたつの紫煙が緩やかな流線型を描きながら夜の中に溶けてゆく。
「徳子たちは変わらないね」と麻衣子。
「……。楽しかったよね、和泉のママ」
「うん」
「サラリーマンにさあ、あんた達、今モテなかったら一体いつモテるつもりなのよって、あれ、笑ったわ」
 
和泉の母親はスナックのママをしていた。
こげ茶色の革張りのソファ席が壁伝いに並び、週刊誌やスポーツ紙の入ったマガジンラックが置かれ、天井から釣り下がるアンティークのようなペンダントライトからは淡い照明がL字型のカウンターに落ちていた。スナックと言うより昭和レトロな喫茶店という風情がしたけど、ただ、確かにそのカウンターの奥の壁の棚にはカップ&ソーサーが飾られているのではなく、ずらりと並んでいたのは洋酒のボトルだった。
 
和泉とは違う小学校だったから、中学で初めて同じクラスになった時、親しくなった。
和泉しおりと伊勢崎しおり。同じひらがなの名前で、前の席と後ろの席。
わたしが最初に所属したのはテニス部だったけど、そこには上下関係にやたらうるさい先輩がいて、面倒になって即やめた時、そういうの、ないよ、と和泉が言って、彼女のいる美術部に入り直した。
和泉もわたしも一人っ子同士だったので、それも影響したと思う。
 
小さい頃はね、おもちゃでも洋服でも同じものが2つ欲しくて。それでよくママを困らせたわ。
それを聞いたとき、わたしはとても嬉しかった。まさしく自分も同じことをしていたから。
でも決定的に和泉と親しくなったのは、わたしの苦い経験があってからだ。
朝礼で、貧血を起こしたわたしは保健室のベッドで横になっていた。
その時、男子の声がして、身体を起こすと、カーテンがさっと引かれ、背の高い、茶髪の男子がわたしを見下ろした。
誰? ざらりとした低い声。
……。
先生は?
分からないという意味で首を振る。
ふーん。
男子は辺りを見回し、不用心だよなあ、と言いながら、わたしの傍に腰を下ろす。ぐっと顔を近づけて、かわいいじゃん、と言った。
言っただけじゃなかった。胸を触られたのだ。
身体が強張る。
その時、「先生!」と甲高い声がして、男子はさっと立ち上がり、声をあげた女子を肩で突き飛ばすようにして出て行った。
声をあげたのが和泉だった。
様子を見に来て、咄嗟に「先生!」と声を張り上げてくれたのだ。
誰にも言わないで。
和泉は、大丈夫? あいつ、3年の黒田。問題児ってことはみんな知ってる。あたしもやられたことある、と言った。
小学校から色々、やらかしてるヤツだから、いつか鑑別所送りになると思う。
 
 
「うちの母親なの、和泉のママの事、問題視したの」
裏から、レストランの厨房に行き、そこからオレンジジュースのグラスをふたつ持ってきた麻衣子はわたしにひとつを手渡しながら、そう言って縁石に腰を下ろした。
「先生に言ったんだよね。そんな家の子とうちの子が同じクラスで大丈夫なんですかって」
わたしは仰天した。いや、彼女の母親が超過保護なのは知っていたけど、そこまでやる?
「ふふ。クズだよね。ほんと恥ずかしい女」
わたしは何も言わなかった。ここで気の利いたことのひとつも言えるほど、賢くなかった。
「でもさ。今ならちょっと分かるんだよね」
「お。イセに浅田、なに女子で浸ってんだよ」
外に出てきた安東が声をかけてくる。わたし達を見て、「しばらく見ない間にいい女になってんじゃん」
 「オヤジ」
「大学生にオヤジはないだろ」
安東はわたしを見て、「相変わらず、くるくる回ってんの?」と両手を挙げて自分がくるくる回ってみせた。
「そうだよ、ただし、クラブでね。朝まで踊り明かしてるよ」
「今度、合コンやろう、合コン」
「はいはい、今度ね」
「あー、オレの事、ブサイクだと思ってあしらってんでしょ」
「あんたさあ、そうやってナンパして歩いてるでしょ。手慣れた感あるから」
ぎゃはは、と笑って安東はレストランの中へ、他のグループに交じりに行った。
「バレエ、続けてるの?」と麻衣子。
「ううん。受験の頃、やめちゃった」
「そっか」
麻衣子はオレンジジュースを一口飲んでから、「大学生になるとさ、飲み会とかあるじゃない?」と調子を変える。
「ノリで飲んじゃうよね」
「やっぱり?」
「親には言えない事が増えるよね」
麻衣子は目を伏せてオレンジジュースのグラスを軽く回す。
「……親達の中にさ。あの子の母親とヤっちゃったらしい父親がいたんだって」
言いながらも麻衣子の視線はオレンジジュースに注がれている。
「母親がさ、どこでだかそれを仕入れて来て、まあ、PTAなんか欲求不満の主婦の集まりだからさ」
「おおごとにしたんだ」
「っていうか、最初はひそひそ噂が回って。でも誰もそれを学校に訴えたりはしてなかった。だって、そうでしょ? 誰それさんちの父親が和泉さんちの母親と不倫関係なんですって。そう宣伝するわけにいかないじゃない?」
「でも?」
「うちの母はやったわけ。良くない噂を耳にしたって」
「言っちゃったか」
「イラっとさせられたのは、こういう言い方はヘンだけど、うちの母親が寝取られたんだったら、まだ分かるの。そりゃ怒鳴り込むよね。だけど、噂だったんだし、うちの母は被害者でもなんでもないのよ。よそんちの事に首つっこむなよ、バカ女。ってかチクってんじゃねーぞって」
「……」
「……。パパはさ、浮気してたんだよね」
言って、麻衣子はわたしを見る。
「和泉の母親とじゃないわよ。自分の会社の秘書とよ」
麻衣子の父親は小さいながらも会社を経営していた。小学生の頃、よくお嬢様だよね、とからかった。
わたしが中学の頃からだよ、と麻衣子は呟いた。
「ずっとあたしは知らなかった。うちは父と母と兄とあたし、仲が良いって思ってた」
「……あたしもそう思ってたよ」
言った瞬間に麻衣子に物凄い形相で睨まれた。
「あの女は自分のうっぷん晴らしに和泉の家庭を利用したんだよ」挑むようにそう言って、オレンジジュースをあおった。「っとにクソ女。死ねばいいのに」
夜風が駐車場の緑陰樹の葉を揺らす。
「でも、ママの気持ちもわかるんだよ。愛人の秘書を刺す代わりに、和泉の母親を貶めた。でもさ、ほんとに誰かの父親と和泉の母親がヤったかなんて、分ってなかったんだよ? 百歩譲って、そうだったにしてもさ、同級生の父親だって知らなかったかもしれないじゃない。なのに、うちの母親は鬼の首でも取ったように和泉のママを血祭りにあげたんだよ。そういうことをしれっとしてやる母親ってなにもん? 家じゃ普通の顔して、母親面して。自分は離婚する勇気もないくせに。よそんち壊してるのは同じじゃない?」
声を潜めながらも激しく罵る麻衣子にわたしは黙って聞く事しかできなかった。
「あたしもクズだよね」
「そんなことないよ!」
「やだ、やめてよ。言わなくて良いから」
そしてまたオレンジジュースに視線を落とす。
わたしも同じように視線を落とし、手の中のグラスを回してみる。すっかり水滴がおちたグラスの中では小さくなった氷が、一応、自分も回ってみましょうかね、というようにもたもたと回る。
「……麻衣子がさ。お父さんの事、知ったのはいつ?」
麻衣子はちょっと姿勢を正した。
「大学に入ってから。母親から言われたわけ。もう大人なんだから、知ってもいいわよねって」
「……。麻衣子を味方にしたかったんだね」
「そうだよ。だからクズだって言ってんの」
 怒りに光る麻衣子の瞳が街灯の明かりを受けてよりきらめいて見える。それに応える相応しい言葉をわたしは探す。
 「……。うちはさ、父が結構、毒親だよ」
「え? なに、なんの話? だって、シオのパパは優しいよね?」
「外面は良いの。公務員だから。でもすっごい学歴偏重主義。人を学歴で判断する。2年の時、和哉から、彼の父が銀行から総研に出向になったって話を聞いて、何の気無しにそれ、父親に言ったの。そしたら、出身大学は何処だ?って。知らないって応えたら、40過ぎの出向じゃ、片道切符だなって。その見下し感がさ。かなりイヤな奴だと思わない?」
麻衣子はきょとんとする。
「でも……。それくらい普通だよ。浮気より良いじゃん。10年近く愛人囲ってるクソ野郎じゃないし。母親だって、シオのママ、すっごく良い人じゃん。誰かをチクったりしないでしょ。よそんちの陰口だって言わないし。ってか、あんた自分がどんなに恵まれてるか、ちゃんと分かってる?」
え、そう来る? 
「あんたのパパはピアノが弾けるし、家族で歌ったりしてるじゃん。バレエの衣装だってママが作ってくれたし、同じ本を回し読みしたり、色んなこと相談に乗ってくれるじゃない。あんたんち行くたび、すごいなって、良いなって。なのに、信じらんない。親の事、そんなふうに言って。地獄に堕ちろって思う!」
って、なぜ麻衣子が興奮してうちの親、かばうわけ?
「おいおい、なにケンカしてんだよ」
今度は菅原が入って来る。「うるさい!」麻衣子とわたしは同時に立ち上がり、声を張り上げる。
「うへっ。なんだよ、どうしてるのか、見に来てやったのに」
「いいから、戻って!」鋭い麻衣子の声音に、彼は、まあまあ、と両手を挙げて後退り、それからすごすごと建物の中へと退散する。
 彼が戻ってゆくレストランの窓から漏れる明かり。その窓越しに、それぞれのグループに分かれて楽しそうに談笑している元クラスメイト達が見える。
そこは安全地帯だろうか。
 
わたしはふと、その屈託なく笑っている姿に中学の時の制服を重ねてみる。驚くほど変わっていない子達もいれば、髪を染めたり、化粧をしていたり、まるでもう大人のように見える子達もいて、彼女達に制服を重ねるのは難しい事に気づく。
たった、まだ10年と経っていないのに。
 
「ごめん…ちゃい」と麻衣子が先に言う。
「いいよ」たぶん、応え方を間違ってしまったのは、わたしだから。
「……。でも、ショックだった。シオぐらい、っていうか、シオのうちぐらい、憧れさせて欲しかったって言うか」
「それはもうお互いさまって事にしない?」
そう。わたしこそ、麻衣子を社長令嬢、お嬢様だと思って家庭ごと憧れていた。
日曜には夫婦揃ってゴルフを楽しみ、親戚まで連れて、みんなでマチュピチュ遺跡を見に行ったり。今回だって、娘の頼みとあらば、一軒家のレストランのオーナーを動かしてしまえる、そういう事の出来る父親をもつ麻衣子を眩しく見ていた。
彼女の家に遊びに行くと、デパ地下では手に入らないパティスリーの、それも期間限定のお菓子が出されること。成人式の為に京都の呉服屋で着物を作ってもらえるという確約があること。小中学校の頃は、ファッション雑誌に出てくるような家庭が本当にあるんだと思っていた。
たとえ、ある時、父親が、社員が100名足らずじゃ中学校の1学年の生徒数より少ない数だろう、と指摘したことがあったにしても。お前が思うほど、楽な暮らしじゃないぞ、と。
今思えばわたしが憧れをもって見ている事を麻衣子は敏感に感じ取っていたのだろう。
だからこそ、そう振舞っていた。あるいは、わたしがそう振舞わせていた。
本当は苦しかったのかもしれない。でも、それを吐き出すわけにはいかなかった。
そして、それは和泉にしても、同じだったのかもしれない――。
 
「どうして今、ここにお酒が無いのか、そこ、すっごい不思議」と麻衣子がまた調子を変えた。
「だよね。しらふで話せるあたしたちはすごい」
「ね、河岸をかえない?」
「いいよ」
わたし達は薄手のコートを手に取り、レストランの裏の小さな駐車場の縁石から立ち上がる。
「どこにする?」と麻衣子。
「クラブ。麻布のお店でちょっと顔パスなところあるから」
「つまりは?」
「運が良ければコーラにちょっとウォッカを入れてもらえる。でもその前に親にLINEしとく」とスマホを取り出す。
「あら。良い子」
「良い子に振舞っていれば、自由度はあがる」
自由度、か。と麻衣子はつぶやく。
 
麻衣子の父親は、麻衣子が入ったテニスサークルの合宿に猛反対したのだ。学生ばかりで何やるか分かったもんじゃない、と。
それでいて、自分は秘書に手を出していた。いや、そんなだから、心配するのか。
尤も、あながちその心配は間違ってはいない場合もある。
わたしも大学でフットボールのマネージャーしている女子に声をかけられ、一緒に飲み会に参加したことがある。あの時、途中で抜けてなかったら、と思うとちょっとぞっとする。
女子マネは、3次会の後、先輩の男子2人とホテルに行ってしまった、と笑っていた。
シオもあのまま残ってたら、ヤっちゃってたかもね。
すみません。それはないです。わたし、まだ処女なんです。
え゛、とのけぞる女子マネに、いいじゃない、大事にしなよ、と別の先輩女子が口を挟んだ。
男子達と、そういう雰囲気になりそうな、その一歩手前でするりと抜ける。
その技をそれなりに覚えてゆけたのは、和泉の母親のお店があったからだ。
18時を過ぎた頃から、ちらほらと入って来るサラリーマン。1人で来たり、2、3人だったり。「お?」という顔つきにすかさずママが「娘の友達なのよ」と言う。口元に笑みをたたえて、でもその眼光は鋭い。
大人の女性はこんな表情をしてみせることができるんだ。うちの母では絶対、無理だろう、とあの時、そう思った。
 
客あしらいが上手くないと、続けられないのよ、と和泉は言っていた。
でもお客の中にはわたしがママの本当の娘だって知らない人もいるから。そうね、お運び中に冗談めかして、さらっとお尻を撫でられたりしたことは何度もあるよ。
酔っ払ってる事にかこつけて、キスされそうになったことも、ね。
 
夏休み、和泉はよく店を手伝って、お客に料理を運んだりしていた。母一人、娘一人だという事を知ったのも、その頃だった。
「早く、オトナになんなさい。そしたらボクとデートしよう」ちょっとお酒が入って陽気になった馴染みの若いサラリーマンが和泉に声をかける。もう1人のサラリーマンが「こんなオジサン、やだよねえ」と笑う。
「ありがとうございます。わたしが大人になるまで、どうぞ、末永くうちの店を贔屓にしてやってください」と笑って、和泉はぺこりと頭を下げる。「こりゃ、1本取られた」「ずっと通わなきゃなんないか」「通う、通うぞ」
「もう、大人の真似事なんかして」とママが笑う。
 
男って、きたないよね。
和泉の言葉が甦る。
でも、和泉とママと、お客達をあっちに転がしこっちに転がし、まるで手品みたいだったよ?
シオは、きれいなとこしか、見えてないから。
え?
でも、そこがシオの良いところよ。
和泉はわたしをまっすぐに見て、ふわりと笑う。
そのままでいてね。
 
「どうかした?」グラスを店に戻してきた麻衣子が声をかける。
「ううん、なんでもない」
わたし達は連れだって、通りへ出る。空車のタクシーが流していそうな大通りまでをぶらぶらと歩く。
「……。実はさ、この間、和泉と会ったんだよね」
「え?」
「っていうか、正しくは銀座で見かけた、かな」
「彼女、どうしてた?」
「きれいだったよ。でも隣に渋い感じの男性がいて。ちょっと声をかけそびれた。向こうは気づかなかったみたいだし」
結構、年上っぽかったよ。

大人、じゃなく、男、とあのとき、和泉は言った。
わたしが和泉のママのお店にいたのはそんなに遅くまでじゃない。娘のお友達、という分別が和泉の母親にもあったろうし、和泉にもあったろう。
 ここからここまで。この線のこっち側には来ないで欲しい。だって、まだ、そこまでの仲じゃないから。それとも、そこまで信用してないから。
 あなた達はいつでもひらりと、安全地帯へ戻るでしょう?
 
本当は、いやだったんだろう。
ちょっと、ふざけてみせてるだけだよ、そういう態度にみせかけて、その下にはぎらぎらした欲望が常にある事、それを知っていながら、娘に構うんじゃない! と真顔で言えない母親の事、笑いながら言う事で、相手に逃げ道を与えている事。
 本気で怒ったら、客足が遠のいたら。客もママも、それを分かっていて、分かっているからこそ、その上で、みんなで土足で踊っている。
 でもそこに、生きることまで丸ごと賭けているのは客の方じゃない。
 
「昼間だと、この通りも賑やかなのにね」と麻衣子。
ゆるやかな坂道の両脇には一戸建ての住宅と低層階の瀟洒なマンション、細いビルが立ち並び、その1Fにはおしゃれなブティックが入っていたりする。
「向こうに抜ける?」
この細い通りの向こうには大通りがある。
ううん、と麻衣子は首を振り、このままでいいよ、と言う。
明かりの消えたショーウィンドウの中では、最新のファッションに身を包んだ顔のない白いマネキンが腰に手を当てポーズをとり、どう? と自分を見せびらかしている。誰もいない通りに向けて。
「なんか、華やかなのに、もの寂しいね」
「……あのね」と麻衣子。
「うん?」
「あたしさ、実は、バイト、辞めたんだ」
わたしはマネキンから、麻衣子に視線を移す。
「で、しちゃった。ホテルで。あの、バイト先の塾の講師と」
あの妻子持ちと?
うん。
「すっごい好きだったから。1度だけで良いです、って。頼みに頼んで」
言って、麻衣子は両手で顔を覆ってから、頬を払うようにし、ふーっと息を吐き出すと、話を続ける。
「笑っちゃうのはさ。強引にお願いしたのは自分の方なのに、そのくせ、ホテルに行って、ことが終わったら、やっぱり、なんだ、この人も、普通の男なんだなって。やることはやるんだって。そう思っちゃったんだよね。しかもさ、あの時、生理がいつか聞いてきて、じゃ、大丈夫だねって言ったんだよ。
あ、この人、無責任だなって思ったんだけど、そこで寸止めってわけにもいかないじゃない?」
シオは気をつけなよ。と独り言みたいに付け足す。
わたしは言葉を探す。
「うん。ほんと、気をつけなよ。だってさ、なんて言うか、実際にそうなるとさ、後は妊娠の事ばかり考えちゃって。ほんとに大丈夫なのかなって、そればっかり」
「彼には? 言った?」その不安を。
 「ふふ。まさか。もう会わないからって。バイトも辞めるし。だから最後に、1度きり。思い出にさせてくださいって頼んだんだよ?」
「……」
「だから、誰にも言えなくて。でも、平静に振舞ってみせても母親はそれなりに気づくじゃない? で、勘違いしたんだよ。父親の事に気がついたんだって。
ふふ。――もう気が狂いそうだよって思った」
笑顔を作る麻衣子にいたたまれない。
「……ごめんね」
「なんでシオが謝るのよ」
それは、肝心な時に傍にいなかったから。あなたの気持ちを恋バナとして流して来ていたから。
あなたが真っ先に電話をかけてくる友達になれていなかったから。
でもそれを口には出さなかった。出せば、軽く聞こえるから。
わたし達は暫く黙って通りを歩く。
本当はもう1本、向こう側の道は大通りなのに、と思いながら、このままこの人気のない通りを歩いてゆく。
 
突然、転校していった和泉。今頃になって沈黙を守り通せず打ち明けた母親。自分をクズだと言った麻衣子。
既に妻子ある人と一線を超えてしまっていた麻衣子にとって、それを知らずに吐き出される母親の情念は、だからこそ、礫となって彼女を打ったにちがいない。
知っていたら、もっと前に知っていたら。その想いはわたしも同じだ。
和泉も、麻衣子も、わたし達はなんて苦しいのだろう。
 
「……。新入生の歓迎コンパでね。1年の女子たちがお酌させられたんだよ」とわたし。
「でも先輩の女子達が、すっごい怒って。飲み屋のオネエチャンじゃないのよ!って」
「気まずくなったでしょ」
「ううん。男子達は笑って、悪い悪いって、でも1杯だけ?って。他の女子達も、調子に乗んな?って笑い出して」
「巧く収めたんだ」
「うん。でもね、心に引っかかったのは飲み屋のオネエチャンって。そっちの方」
分かるよ、と麻衣子は頷いた。
「バイトしてるとさ、色々、オトナの世界を垣間見るっていうかさ、飲食店でバイトしてた安東も、なんか、人間だめになっちゃうよな、って言ってたことあって。でも、その時、あたしは相槌を打てなかったんだよね」
麻衣子は少し顔をしかめ、それからふっと笑って続けた。
「和泉の事が頭をよぎってさ。ここで、頷いたら、和泉と、自分達と、一線を引くことになるって、なんか、そう思っちゃったんだよね」
麻衣子も覚えていたんだ。
「ね、踊りに行こうよ。なんか、今はそうしたい」晴れやかな笑顔で麻衣子は言う。
「それなら、そろそろ、大通りへ出なくちゃ、ね」とわたしも笑顔を返す。
 
広い交差点の所で、わたし達は夜の中を流れるように走る車の群れにタクシーを探す。
やはり、流しのタクシーはなかなか見えなかった。
「さすがに10月ともなると、やっぱり寒いね」と麻衣子が言う。
薄手のコートに袖を通して、「持って来て正解。ついこの間まで暑かったのに」とぼやく。
ようやく、走って来るタクシーに赤い空車の文字を認め、わたしは手をあげる。
流れる群れから1台、外れるようにして、こちらに向かってくるタクシー。
ビル群の明かりのその上では満月の近くに木星が見える。
「なんか、きれいだね」と麻衣子。
「うん」
「……。和哉とさ、そういう時が来たら、あたしに言ってね。たぶん、力になれると思うよ」
うん、とわたしは頷く。「わたしも、麻衣子の事で出来ることは何でもする」
うん、と麻衣子が頷く。「もしものときは、付き添ってね」
「必ず」わたしはそう言って麻衣子の肩を抱く。
 
なにも解決していないし、なにも起こらないかもしれない。取り越し苦労だったと、イタい思い出のひとつとしていつか笑って語れる日が来るのか、それとも、自分達がしてきたことのツケを払わされるときが来るのか。
 
自分がまだ何ものでもないということは何にでもなれるということだ。
 
和泉の転校を伝えた後で、窓の外に降り始めた雨を眺めながら、ふと、担任はそう言った。
わたし達は、まだ、自分探しの途中にいる。
 
滑るようにわたし達の前に来たタクシーのドアが、すっと開く。
この時、ふわりと頬を撫でる夜風に、もう夏の季節、子供の時間が終わるのだと、これから始まる秋の予感を、わたしは生まれて初めて、意識する――。

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