おはよう、ダーリン

おはよう、ダーリン。
彼女は毎朝、心の中で彼にそう呼びかけていた。今、毎朝と言ったが実際には見かけることができた朝には、だ。何故なら朝のラッシュ時、山手線はほぼ1分間隔で走るからだし、車内も殺人的に混むからだ。
勿論、2人が同じ駅から乗車するなら彼女は彼を待って一緒に車内に乗り込むようにしただろうが、彼女が代々木から乗る時には彼は既にそれより前の駅から乗って来ているようだし、彼女は田町まで行くが彼は品川で降りてしまう。
何より彼は、彼女のことを知らない。
それでも彼女は車内に入ると毎朝彼の姿を必ず探し、見つけた時には人の乗り降りが大きく動く渋谷、目黒、五反田のいずれかの駅でさり気なく彼の近くに移動して、心の中で おはよう、ダーリン と呼びかけていた。
 
指輪はしていないが、彼は結婚しているのだろうか。
もう既に心に決めた女性はいないだろうか。
いつも白いワイシャツに地味なネクタイだから多分堅い仕事に違いない。
背も高いし肩幅も広いからスポーツは得意かもしれない。
そういえば、どんなスポーツが好きなのだろう。考え出すと止まらない。
どんな本を読んで、どんな映画を見るのだろう。音楽は何を聴くのだろう。
何に想いを寄せて、どんな時に涙を流すのだろう。
心に何を残して魂を形づくってきたのだろう。
彼の姿を見るだけで、なんだか切なくなってくる。
せめて声をかけることが出来たらいいのに。
でも何て? ずっとお慕いしていましたって? お姿だけで? それも上擦った声で言うの? 
頭のおかしい女だと思われてしまうに決まっている。
なんてバランスが悪いんだろう。
彼の姿を見つけられるかどうかだけでも一喜一憂、二憂、三憂、私はこんなに想っているのに、彼は全然、全く、完璧に、私の存在にすら気づいてない。
おはよう、ダーリン。心の中でそう呼びかけ始めた時には、まさかいつの日かこの言葉がこんなにも哀しい響きをもってくるなんて、考えてもみなかった。
半年近くなる頃には、彼女はそんなふうに思い始めた。
もうやめよう。恋に恋する少女のような真似は。
 
彼女は車両を替えることにした。そして再び混んだ車内で、時には窒息するか肋骨が折れるかと思われるほど圧され、時には足を踏まれたり濡れた傘を押し付けられたりしながら、腹立たしくもつまらない毎朝を過すことに耐えていった。
 
 
その日の混み方は尋常ではなかった。車両故障で電車が遅れたのだ。しかも彼女は品川の駅で殺気立って降りようとする怒涛のような人波に呑まれ、ホームに吐き出されてしまったのだ。ホームは既に乗降の人々で溢れ返っていた。
乗れないかもしれない。
すし詰めの車内に無理やり乗り込もうとする人々の最後尾に着き、なんとか片足をドアの処にかけながらも途方に暮れた時、ふいに後ろから強く押し込まれた。思わず肩越しに振り返ると、なんとあの彼が加勢して自分を車内に押し込んでくれている。目が合うと、彼は“どうも”とでもいうように軽く頭を下げ口角を上げた。そしてどうにか彼女を車内に納め、ドアが閉まると、そのまま改札へと向かうべく人波を縫ってホームを歩いて行った。
たったそれだけのことだった。
 
しかしそれがきっかけだったそうだ。
悪いとは思いつつも僕はOL風の3人の女性がランチをとる隣のテーブルで新聞を読むフリをしながら一心不乱にその話を聞いていた。
彼女は勇気を奮い、また彼が乗っているはずの車両に乗るようになり、2人は互いの姿を見つけては目礼し、やがてどちらからともなく声に出して挨拶を交わすようになり、そのうち二言、三言、会話が増え、その流れから名刺を交換し、LINEのやり取りも始め、食事の約束から、映画や美術館、深夜のとりとめもない長電話、テニスやスキー、週末の小旅行へと、2人で伴に過す時間、経験を共有することを少しずつ増やしてゆきながら、薄紙をそっと剥ぐ様にして、互いの心の距離を縮めていった。そうして2年の交際を経て、今度結婚するのだそうだ。
2人のOLが、そんな出会いだったとは、今の今まで黙っていたとは、と、しきりに冷やかしながらもおめでとうと言っていた。
 
そうだよな~。山手線も車内でテレビとおんなじCMを垂れ流すより、いっそ恋する車両でもつくってやったらいいんだよ。そうすりゃ朝のあの殺伐とした雰囲気もどうにかなるってもんだろう。
とはいえ、恋する車両なんて正面切って設けられても実際には恥ずかしくて誰も乗れやしないか。
通勤ラッシュ時、そこだけがらがらの恋する車両、他の車両はより混雑して、皆イライラしながら目的地に着くまでの間それぞれの心の内に引き籠もる。より一層、荒寥とした孤独感が募るじゃないか。
思わず暫し黙考タイム。
 
それにしても、“おはよう、ダーリン”か。
既に彼女達はランチを終え、席を立ち、気がつけばカフェの中も閑散としている。
おはよう、ダーリン。さっきそう言っていた彼女の笑顔はなんとも可愛らしかったな。あんな笑顔を見せられたら誰だって放ってはおかないだろう。
そして、ふと、考えた。一緒に暮らしている彼女のことを。
忙しさにかまけてすれ違う僕達の朝のことを。それが当たり前になってしまった僕達の生活。
君があんなふうに笑ったのは一体何時の事だったろう。
君は今でも僕と一緒になって良かったと思っているだろうか。
 
おはよう、ダーリン。声に出して、そっと呟いた。

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