本当に欲しいもの

太宰はね、女を口説く時には一緒に死んでくれと言ったそうだよ。
彼の唇が、私のうなじにそっと触れる。
あなたはそう言っておいて、いざとなったら一人で逃げ出す男よ。
背後から、彼の掌が私の乳房をそっと包む。身体をずらして仰向けになると、口角を上げた彼の顔が見える。
酷いな。
そうよ。
その酷い男が好きなんだろう?
彼の指が、私の鎖骨を撫でてゆき、彼の舌が、身体の奥深くに潜り込み、私を中心から、かき乱してゆく。
窓のない部屋の中で、ベッドから見上げる天井は深いブルーに見える。
彼の右腕が私の左足を抱え上げ、彼自身が、私の中へ入ってくる。
私は、私の身体という領土を彼に明け渡しながら目を閉じて、夜の海の、底へ底へと落ちてゆく。
 
土曜の午後に、私は可奈子とオープンカフェでランチを取る。
テラス席に座る私達には陽射しを受けた木々の緑と芝生、それにまだ水の出ていない噴水が見えている。その噴水の周りのベンチには休日を楽しむ家族連れやカップルの姿がある。
可奈子は見るともなしに彼らを見ている。
私はメンソールの煙草に火をつける。
噴水のところに母親と手を繋いだ三、四歳ぐらいの男の子がやってくる。母親はスーパーマーケットのレジ袋を提げている。
可奈子は僅かに眉をひそめてから私に向き直り、気分を変えたように笑顔で「そういえば、年下の彼とはどうしてるの?」と訊く。
私は少し勿体つけたような気取った調子で、
「どうもしてないわ。たまに二人で食事をするだけ。あるいは映画を観たりする」と応える。
「それで?」
「それだけ」
可奈子はくるりと眼を回してから「そうなんだ」と言う。
噴水のところでは、あの男の子が自分の腰ぐらいの高さのそのヘリに、片足をかけたり下ろしたりしている。
 
誕生日おめでとう、千織さん。
先週の二十六歳の誕生日に青山にある瀟洒な一軒家のフレンチを郁也は予約してくれた。デザートの時には照明を落として、ギャルソンが丸いバースデイケーキを運んできた。プレゼントは真珠のピアスだった。眺めていると、気に入ってくれた? と郁也は小さな声で訊き、私の顔を覗き込んだ。
ええ、ありがとう。
良かった。何も言わないから。――気に入らないのかと思った。
郁也はそう言って、満面の笑みを浮かべた。
 
噴水のところでは、先ほどの三、四歳ぐらいの男の子がようやく両足でそのヘリの上に立った。母親に乗せてもらったくせに自慢げに母親を見上げている。
ぼく、ちゃんとできたでしょう? そんな表情に見えるその姿を眺めながら、ふと思う。
二歳の差はとても大きいのかもしれない。二十四歳の男は、まだ子供なのかもしれない。
そしてまた、塩原のことを考える。
 
覚えてる? 君が新卒で初めて一課に来た時、オレのこと、素敵ですねって言ったんだよ。
私が新人だった頃、配属になった一課に塩原はいた。彼は六月になると子会社の証券に出向して、一年前、本社の二課に戻ってきた。戻ってきた日、私達は二人で恵比寿のバーへ行った。
あの時、離婚したばかりだったから嬉しかったね。まだそんなふうに見てくれる人がいるんだなって思った。
でも、結局、あなたは私と付き合わなかったし、証券にいる間に他の人と再婚した。
彼は視線を落とし、手に持ったグラスをゆっくりと回した。
タイミングが、合わなかったんだな。君がそう言ってくれて嬉しかったけど、どこかでそういうのは、もういいかなって思ってた。
天井から釣り下がる仄かな灯りが、三十二歳の男の横顔におりていた。
それで今は?
私が訊くと、彼はグラスを回す手を止めた。店内ではキース・ジャレットのピアノ・ソロ、ケルンが密やかに流れていた。
どこか行く? 彼はそう囁いた。

「真珠のピアスを貰ったわ。先週の金曜日に」
テラス席のどのテーブルにも柔らかな午後の陽射しが降りている。
可奈子は私の耳元を一瞥して、「でも、してないのね?」と言う。
「そういえば、帰りに手を繋いでもいい?って訊かれたわ」
可奈子はぱちぱちと瞬きをして「それは、可愛らしいわね」と言う。
そうでしょう? そう言う代わりに私は口角とスプリッツァーの入ったグラスを軽く上げる。
「付き合ってどのくらいって言ってた?」
「二ヶ月とちょっと」
「いいわね」と可奈子は少し笑う。それから、
「今が一番楽しい時かもしれないわね」と言って、噴水の方を眺めやり、そっと小さな溜息をつく。
可奈子と私が親しくなったのは入社試験の会場でだった。
幾つか回った企業の説明会で三度も彼女と顔をあわせ、これはもう友達になるしかないわね、と言ってお互いのアドレスを交換した。それぞれ別の会社に就職したが私達は月に一度、一緒にランチを取ることにしていた。そして互いに話せることだけを話している。尤も可奈子の方が私より多くのことを話してくれているのかもしれない。
可奈子は去年、子供を堕ろした。
まだ父親になる準備が出来ていない。恋人はそう言い、可奈子は一人で病院に行った。
何もかも済んだ後で私に打ち明けて、でも彼が一緒に暮らそうと言ってくれたから、と震える声で付け加えた。私はただ頷きながら聞いていた。それ以外、私に出来ることはなかった。
可奈子と恋人は一緒に暮らして一年近くになる。恋人は今年三十五になると言っていた。それでも二人は互いの両親に、どちらも紹介しようとはしていない。
まだ結婚する準備が出来ていない。恋人が今度はそう言っていると前に可奈子は話していた。今はもう恋人のことをあまり話したがらない。

私にも可奈子と同じ経験があった。
妊娠を巡って男と怒鳴りあう日々が続くということ。クリニックでは女医がさり気なく、性病の検査もしておきましょうね、と言うこと。(妊娠と性病の検査を同日にしなきゃならないなんて)命の責任についての話。どこまでも打ちのめされるということ。大学二年の時だった。
無理だよ。中絶するしかないよ。大学を辞めてどうするって? それこそ現実的じゃないよ。当時付き合っていた男と散々話し合って、怒鳴りあった末に、彼が疲れ果てたように言ったことに遂には私も同意してしまった。
そして私達の場合はそれから暫くして、結局は別れることになってしまった。
自分達が本当はどういう種類の人間なのかを、あの時、彼も私も互いに分かってしまったんだと思う。人間としての真価は、こういうことで、はっきりしてゆくのかもしれない。

バランスが悪いんだよ。 
昨日の夜、明かりをつけた鏡の前で髪を乾かしていると塩原は言った。
君も結婚してるといいんだよ。
ドライヤーを止めて振り返ると、薄暗いブルーの部屋の中で、ワイシャツに袖を通している彼の姿が目に入った。
私は鏡に向き直り、耳から真珠のピアスを外して、シンクにそっと捨てた。
鏡越しに見ていた塩原は何も言わずに眼を逸らす。
あなたはやっぱり一人で逃げ出す男なのよ。
そう言って欲しい? 一緒に死んでくれって。
どうかしら。あなたのこと、そこまで好きってわけでもないわ。
すると彼は笑い出し、不敵な笑みを湛えたまま傍に来ると、背後から私の肩を抱いて耳元で囁いた。
それはお互い様だろう。

もしかしたら、私はとっくに何かが腐っているのかもしれない。
噴水のところでは、先ほどの三、四歳ぐらいの男の子がそのヘリの上で母親に向かって、いやいやをするように身体を左右に捻っている。
可奈子は頬杖をついたまま、ぼんやりそれを眺めながら、またそっと小さな溜息をつく。その手の中指と薬指にはこの間買ったという高価な指輪をつけている。隣の席にも午前中に買ったという高級ブランドのバッグを入れた紙袋が置かれてある。
本当に満ち足りている人は物を買いません。私が言うのもおかしいですけど。
取引先のCMプランナーの女性の言葉を思い出す。

可奈子はふと私の方を見て、視線の先の紙袋を一瞥する。
「本当は春の新作を買うつもりだったの。でも、もうなかったのよね。だからブラウンにしたわ。定番だけど」
「新作なら、また入荷するでしょう?」
「限定販売だったの。ティー・ローズで。まあ、いいんだけど」
「定番の方が飽きないわよ、きっと」
「そうよね。でも……。なんかさ、最近思う。本当に欲しいものは決して手に入らないんだなって」
可奈子はまた噴水の方を眺めやり、幸せになりたいだけなのにね、と呟く。

二ヶ月とちょっと前、取引先を一緒に回った帰り、道路脇の形ばかりの狭い公園で一休みしている時に郁也は言った。
苦い思い出があるんだ。学生の時、付き合っていた彼女を友達にとられちゃって。
ひしゃげて黒ずんだごみ箱。手入れをされていない花壇。ひっきりなしに車道を飛ばして排気ガスを撒き散らしてゆく車。建ち並ぶ高層ビルのおかげで陽の当らないその公園にいると、この世の涯にいるような気がした。
自分も悪かったんだと思う。彼女のこと、あまり大事にしてなかった。
あなたは何も悪くないわ。それに彼女をとった人のことを友達と言わなくていいわ。
郁也は暫く私を見つめていた。
今度、彼女ができたら、すごく大事にすると思う。

あの時、郁也は私に一体何を見ていたんだろう。
真珠のことを純潔な人魚の涙と言ったのは誰だったろう。

噴水のところでは、あの男の子が母親の手を逃れ、両手を水平に広げバランスをとりながら、おぼつかない足取りで一歩ずつ、そろりそろりとヘリの上を歩きだす。
だけどその顔は期待に満ちて、自分は絶対に落ちたりしないと思っている。

私にはパレードが見える。
あの男の子の頭の上にパーティハットを載せて、ラッパを吹かせながら、その後に私や可奈子、彼女の恋人や塩原に郁哉を続かせて、噴水のヘリの上を、互いに手を取り合って楽しそうに笑い合い、軽やかに踊りながら行進するのだ。
自分達は落ちたりしない、こうやって楽しそうに振舞っていれば、いつかきっと、虹の彼方に辿り着けると思っている。

だから私は眼を閉じて、そっと願う。
あの男の子が落ちればいい。

「落ちればいいのにね」ふいに可奈子の声がする。
眼を開けると、可奈子が私を見ていて、ふふっと笑う。「私って、酷い?」
私はすっかり冷めてしまったコーヒーに口をつけてから応える。
「そうね。そう思うわ。――落ちればいいって」
私達は一瞬だけハタと互いを見つめ合う。そして、泣き出す代わりに笑い出す。晴れやかな空の下で。

帰り道。既に日は落ちて、辺りを群青色の空が覆う。
私はひとり、広い通りから一本入った狭い通りで歩行者用の信号機がない横断歩道を前に立ち止まる。この先の道をずっとゆくと明治通りに通じるせいか、車の交通量が意外に多い。
車が途切れるのを待っていると、人二人分くらい離れた位置に誰かが並ぶ。
低く聴こえてくる「ハッハッハッ」という息遣いに顔を向けると、長い金髪のポニーテールを揺らしながら、その場で足踏みしているジョギング姿が眼に入る。骨ばった身体つきで40代あたりに見えるのだが、そのスポーツウェアは、蛍光色のショッキングピンクのランニングシャツ、下には黒地に赤とピンクとブルーの幾何学模様の長袖Tシャツ、そして同じく蛍光色の黄色の短パン、蛍光色の黄緑のスパッツとなっていて、全身、度肝を抜くほどカラフルだ。
思わずその横顔に目を向けると、厚塗りの白粉に真っ赤な口紅が目立つ。
とても普通の女性には見えない。
尤も、なにをもって普通と言うのか。
少なくともその横顔は凛としている。私は自分の好きなものを着て望むように生きている、自分が何者であるかをあなたに測られる必要はない、そう語っているかのようだ。
彼女? は私を気にすることもなく、280mlのペットボトルを腰のポーチから取り出し、ミネラルウォーターをごくごくと飲みだす。それに合わせて大きく角張った喉仏が上下する。
彼女あるいは“彼”は、ミネラルウォーターを飲み終えると、右側から走って来る車に向けて毅然と右手を挙げ、STOPというような身振りで車を制す。
私を振り返り、「ファイト」と言ってニッと口角をあげると、颯爽と走り出し横断歩道を渡ってゆく。
その時、LINEの通知音がして、可奈子からのメッセージが入る。
「三十歳になっても今と同じだったら一緒に泣こうね」
顔をあげる先には先ほどの“彼女”が揺るぎないフォームで全てを振り切るように力強くまっすぐに走ってゆく後ろ姿がある。
LINEに応える言葉を探しながら、私は思う。

“彼女”のように、私達も今いる自分の世界から、走り出せるだろうか――。

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