夏の災厄

一部のSNSでコロナ予言の小説と囁かれていたそうだ。私が買ったのは1998年発行文春文庫版。(ブックオフの店頭で見つけたの。ありがとー、ブックオフ;どうしても私は小説は書店に足を運んで手に取って表紙のイラストや写真、タイトルから発せられるニオイや頁をめくった時の手触り、最初の数行、解説等を読んでから買いたい派。いや、もう「派」というより、儀式、宗教だ。どうしても手に入らない為、ポチした時はなにか殉教したような敗北感を覚えたから笑)
実はこれを買った時、巷の書店ではカミュの『ペスト』がずらりと平台に並んでいた。
もう普段、ガラガラだった家の近くの書店でも、レジ前の床に“間隔をあけて並んで下さいね”テープが貼られ、そのルールに従って間隔を空けて書籍を手にした人達が書棚の間まで並んでいるのを見た時、書店員でない私でも、思わず心の中で随喜の涙。
本は友達。ト・モ・ダ・チ。(←こう書くとなんかホラー)
それは兎も角。
カミュの『ペスト』が読み直され再び脚光を浴びたあの時、なぜ、『夏の災厄』は書店にズラズラと並ばなかったのだろう。
尤も、『夏の災厄』に限らず篠田節子の小説は書店に並んでいるものが少ない。『仮想儀礼』もあっという間にそのお姿は書店から消えた。ブックオフの店頭にもなかなかお目見えしてくれなくて、もはや希少本の勢い、私の中では。
ポール・オースターが亡くなった時は書店にさりげなく『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』までも再びお目見えしたというのに。そういえばマッカーシーの『すべての美しい馬』三部作も書店に並ばなくなった。同時期に発行されていたクリストフの『悪童日記』は健在なのに。話は逸れたけど。
『夏の災厄』なぜ一部のSNSでささやかれた時、よっしゃ、今が売り時と出版社が、再び書店に送り込む野望を抱かなかったのかとても不思議。
それくらい、読みごたえがあった。
ある日、夜間診療センターに「風邪を引いちゃって」と男がやって来る。同じ頃、別の診療所にも「頭が割れるように痛い」と言って不動産屋の男がやってくる。そしてまた別のクリニックにも高熱の患者がやってくる。
それぞれの医療機関のそれぞれの医者たちは、彼らを診察した後、当たり前のように今までの経験と知識から診断を下す。ある者は日射病、ある者は髄膜炎。ある者は、とここで一つの悲劇が起こる。その悲劇の為に、正しい病名が隠される。
そしてまた夜間診療所に30歳をちょっと過ぎた女性がやって来る。頭が痛い、吐き気がすると言って。この辺りから夜間診療センターの正看護師、房代が患者達が訴える症状の共通点に気づく。患者達は、光を眩しがり、ありもしない甘い香りがすると話していた、と。
なにかとんでもない病気が流行り出しているのでは? 房代がそこに思い至るのは夜間診療所にやってきた患者達のその後を知った時だ。
この「起」の部分が実に素晴らしいと思ってしまう。実際、未知の病気があちこちで発生し出す時、医療関係者がすぐさまこれはとんでもない病気だと気づいて、さあ大変、ということにはならず、実際には、風邪や髄膜炎、日射病、などと様々な診断をそれぞれの医療機関で下す事になるんだろうな、と思うからだ。
そして、そのとんでもない病気が実は日本脳炎と判明する時。
ここがまた良いんだなあ。
というのは日本脳炎は新種の病気じゃないから。とはいえ、房代を含め実際に患者を前にしている医療従事者達はこれは従来の日本脳炎ではない、と本能的に感じてはいる。しかし役所を含め、一旦、日本脳炎と定義されれば、それが従来の日本脳炎とどんなに違う様相を呈していようとも、罹患率等の数字、データが上がってくるまでは、まずお役所はお役所として、オーソドックスに日本脳炎に対する対策を施すことになる。そういうところを丁寧に描いているのが、またこの小説の読ませるところ。
しかし、市民の方は、特にその日本脳炎に罹患する患者が多発する地域に住む人々は、もう動物的本能のように、“普通の日本脳炎じゃない!”としてヒステリックに反応し出す。もうこの作家の人間観察眼って凄いなあ、と思ってしまう。ヒステリックに、と書いてしまったけれど、わあわあぎゃあぎゃあというのとは違って、しかし、こういう差別行動を現実にも人は取るに違いないだろうなと思わされる描き方をしているのだ。
やがて、これは従来の日本脳炎ではないことがはっきりしてくる。
新型日本脳炎、通称窪山脳炎。この脳炎は蚊に刺されれば例外なく発症し、一両日中には死に至り、奇跡的に一命をとりとめても重篤な後遺症が残る。
この病気にかかったら最後、死ぬか、生き残っても重度の後遺症に苦しむか、のどちらかしかない。この後遺症を巡る家族の介護の悲惨さも作家はちゃんと描くし、きれいごとにしたりはしない。また窪山脳炎と称されるようになった時に市井の人々がどう動くのか、人間の本性を決して見逃さない。
レジャー施設で次々とこの新型日本脳炎にかかった患者が発生するところも圧巻だ。
 
死病が蔓延してゆく時、それまでワクチン反対派だった医師鵜川は何を決断するのか。市の職員は、厚生省は、そして市井の人達は何を選択するのか。そこも物凄く読ませてくれる。
小説の中で描かれるこの窪山脳炎の感染環の形成を解明してゆくところもすごい読ませてくれるし、登場人物達がまた素晴らしい。
房代はもちろんの事、看護師の和子、市役所勤めの小西、永井係長、青柳、医者の鵜川、辰巳、水谷、製薬会社の森沢、エリム・サリム。
私が好きなのは青柳と鵜川先生。
特に青柳の「あたしはね、先生、金や地位など俺にはいらんと正義の味方やって、豪邸ぶっ建てる開業医どもをせせら笑いながら、ぼろ診療所で世間を睥睨できるほど、ご立派じゃないんですよ」という台詞を聞いて「鵜川は顔から血が引いていくような気がした」と、ここも良いんだなあ。その後に続く鵜川の冷静さも実に秀逸。そしてこの人生やる気ナッシングな青柳がしかしとある島ではなかなかの交渉人として活躍するところも良いんだなあ。そう、そういう良さがどの登場人物にもあって、永井係長も何気に良いの。やるべきことをやるべき時に即やれるように準備おさおさ怠りなしの、できる男なのだ。
そしてまた辰巳先生。「(前略)ハザードは起きるはずはない。医学部長は、そう言いおった。しかし起きるはずのない事が起きるのだ。起きるはずがない、という傲慢極まる確信のために、(後略)」
大学病院の研究、それは崇高なものだった。でもそれが必ずしも予想した通りの成果を上げるとは限らない、予想外の、しかも最悪の事態が起こった時、組織として、人として、人間はどう動くのか。
そのことについてもとても考えさせられるのは、房代が「名誉と地位と金……ですかねえ」と言った時、「それだけではない。多くのしがらみの中で生きている。忠ならんとすれば、孝ならずというところだ」と辰巳が返す場面があるからだ。
辰巳は「単純にモラルの問題ではない」「倫理観に欠けていた、ととらえると少し違う」とも先に語っている。「病原体以外のことを知らない者が多過ぎる」。
そう「知らない」ということの重大さ。
もしこれが名誉・利権・金の為だけに動く巨悪の存在が起こした「災厄」であったなら、ハリウッド的悪漢がいて、悪いことは常に悪い奴らがやらかしてくれるから、って物語で、ちゃんちゃんって気になってしまうんだけれど、『夏の災厄』はそういうわっかり易い善悪にしていないところが、本当に素晴らしいと思う。
そして、ヒーローが一人じゃないところも素晴らしい。ヒーロー不在、ということだそうだけれど、私にとっては災厄に対して立ち向かう彼らは全員、ヒーローだ。
登場人物のそれぞれが、それぞれの役割を果たしているところがなんか良いのだ。登場人物のうちの何名かは命を落とす事になる。小西の仲間だったり、房代の同僚だったり、レジャーランドで頑張っていた看護師だったり、研究員の女性であったり。映画やドラマで言えば脇役も脇役となる人達の死や後遺症に苦しむ人達やその家族の描写も少ないものでありながら、そこに描かれるのは生身の人間そのものとして、とても印象深い。
 
ウイルスは攻撃する。
それに立ち向かうのはごく普通の人達だったり理想に燃えすぎてちょっと偏向な医者だったり、やる気なしの浮き草ヒモ男だったりするところが私は好き。
 
少し前にイタリアドラマ『ドック』の中で主人公が「ウイルスはその度に僕たちのDNAを変化させ進化させた」「ウイルスは人を苦しめる。時に残酷だ。でも意味のない痛みはない。今の僕らをつくった」とスピーチする場面があって、そこにぐっと来たのだけれど、そして海外ドラマって、普通の言い方で、でも必ず深い意味のある台詞を繰り出してくるよなあ、といつも感心させられてしまい、そこに脚本家の人間観察眼、理解度の深さを見る思いがするのだけれど、篠田節子という作家もまた紛れもなくそういうまなざしをもっている作家で、そういう作家が日本にもちゃんといるんだってことが、なにか、私まで誇らしい気にさせてもらえるのだ。『ドック』に負けてないぞ~て。(って、私ったら何様なんだ!)
良い小説を読めて、今日も幸せ。

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