★30 大人の女性

 アリス・ミラーなんて全く読んでいなければよかった。
 愛している。
 本なんて読まなければよかった。そうしていれば、彼女と別れなくて済んだ。胸が苦しい。これからどうやって生きていけばいいのか、まったくわからない。頭が痛い。怖い。こんな、こんな、孤独、ずっと、いつまでも、あなたに、ゆるやかに、繋がり続けていることが、生きるよすが、命綱になっていたことが、わかっていたのに、
 わかっていたのに。あなたとお別れしたら、もう生きていけないって、この空虚と孤独に、絶対に耐えられないと、この虚無に、あああなたの部屋のあの香りを、もう思い出せない、本当の自分になるなんてそんなことどうでも良かった。どんなに胸が苦しくても、いつまでもあなたと一緒にいられたらそれで良かった。解離せず、ただあなたと一緒にいられたら、ただそれだけでよかった。一生を棒に振っても良かった。本当のことを打ち明けられなくても、いつまでもおどおどしていても、したくないことを続けていても、それでよかった。ただ好きだった。愛していた。あの人の優しさをただ受け取りたかった。余計なことを思うから。これは愛ではないとか、自分で自分の胸を苦しくするから。何もかもどうでも良かった。ただあなたにお会いしたかった。あなたにお会いすることが、自分の人生の目的の全てだった。ああ本なんて、言葉なんて今まで一文字も読んだことがなければよかった。あなたを頼みにして生きていた。何もかもがわからないままでよかった。もやの中にいる苦しさのままで良かった。
 もうあの香り、あの部屋、あの声、あのソファ、あの笑顔、あの知性、あの皮膚、あの手、あの暖かさ、あの穏やかさ、あのささやき、あのグラス、あの白湯、あのコースター、
 もう二度と、触れることができない。
 彼女にお会いすることが私の人生の意味と目的のすべてだった時期があり、あの人に心の底から愛着していました。彼女にお会いすることだけを頼みに生きていました。ただ好きでした。身体的、本能的に愛着していました。もし本当のお母さんというものがいたとしたらこんな感覚なのかなとも思い、一方で恋焦がれてもいました。
 本当は、抱きしめてほしかった。わかるよって。そのくらい私のことを好きだったんですよねって。好きになってしまうんだよねって。でも苦しいんだよねって。ちゃんとわかっているから、そのために私のところに来ているわけじゃないって、わかっていたから苦しかったんだよね。本当のことが怖くて言えなくて、苦しかったんだよねって。大丈夫だよ、私を好きだと思う気持ち自体を扱うことができるからねって。
 好きです、と打ち明けて、受け取ってもらえると思わなかった。
 あの声が、永遠に、失われた、この世の物事は一切が虚無であり、これからどんなものも慰めにならない、愛していた。胸に聴いてみてごらんよ、愛していたと今言葉にするときの、胸の暖かさ、喜び、涙、寂しさ、胸の痛みを。これは愛じゃない愛じゃないと、否定してきたその苦しさと比べてよ、嘘だったんだよ、
 愛していた。愛していた、愛していた、胸が、苦しい、ちぎれそうで、
 予期していた、痛いお別れになんて、ならなかった。大人の女性だった。寂しい。愛している、愛して、いた、愛している、頭が痛い、
 ああよかったこのままで。成長なんかしなくてよかった。愛していた。いつまでもあなたと一緒にいられたら良かった。ただそれでよかったのに。これから、これからはじめて、苦しくない身体で、穏やかな気持ちで、あなたに、あなたの仰ることを素直に受け取って、あなたと一緒に、過ごせていけたはずなのに。
 どうでもいい、もう、すべて。
 愛していた。
 傷ついているふりをして、愛じゃない愛じゃないと、わめいて、
 傷ついていない私でお会いしたかった。素直に受け取ればよかった。あなたの手にまた触れてほしかった。あの優しい声でまたささやいてほしかった。あの暖かい声で、あの暖かい手を、抵抗しなければよかった。愛されているなんて、思ってはいけないと思っていた。なぜ戦ったのだろう。私達には今この瞬間しかないのに。
 大人の女性だった。素敵だった。頭の良い人だった。優しかった。落ち着いた人だった。明るい人だった。
 本なんて一文字も読まなければよかった。
 抱きしめてほしかった。包み込んでほしかった。彼女は包もうとしてくれていた、のに、抗った。
 私の弱視と怯えて俯いた視線、姿勢では、彼女の姿すら見えていなかった。思い出せない。部屋を見回す余裕すらなかった。あのうす暗い昼の部屋の中で。
 もっと素直に、ただ、素直に受け取ったら、それでよかったのに。苦しくなって。
 自分が苦しくなるような考えはぜんぶ嘘なんだよ、って……。
 最初っから、あんなに
 あの香り、をもう、思い出せない、寂しい、もう二度と、あの声が聞けない、もう二度と会えない、
 今でも好きです、耐えられないです、好きです、お慕いしております、お会いしたいです、
 なぜやめたの。なぜ別れたの。
 なんでこんなことになったの。なぜこんなに無意味にお別れしたの。
 ただ私の現実がつらすぎただけだったんだ、彼女のおっしゃるように。彼女の言うとおりだ。私がもっとも苦しかった時、困難だった時、彼女が助けてくれていた。わたしがいっぺんに抱えきれない困難をいくつも抱えていたときに、一人で彼女は助けてくれた。もっとも困難な時だった、だから、一刻も早く楽になりたくて、不可能なことを、彼女に甘えて、ごねて、あなたでは回復できないと、不満を募らせて、本当は、あなたのおかげで楽になっていたのに、
 彼女は最初からずっと大人だった。
 これから、いつか、そのつらい体験をしたあなただからこそできることがある。だからこそできる助けがある。
 そう言って、そんな、大人の、素敵な、あなたと、お別れ、して、


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