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弱い男性、強い女性

「そもそも、男女平等と職業とは無関係だ。つまり、男と対等になるために、仕事をするなんてナンセンスだと思う。それでは、仕事をしている者が偉いという、馬鹿な男が考えた言い訳を認めることになる。いいかい。仕事をしていても、遊んでいても、人間は平等だ。問題をすり替えてはいけない」(犀川創平)

弱者男性という言葉が最近Twitterを賑わせている。弱者男性という言葉の定義はあいまいだが、どうも女性にもてない非モテ男性に代表される、社会的に弱い立場にいる男性のことらしい。それだったら私も含まれると思うが、一部論者が主張しているのは「弱者男性は己の怠慢による自業自得であり、彼らの救済は自力救済であるべき」との論である。ここではこの論に賛同する立場で、少し非モテ男子(弱者男性の代表)に特化して、彼らについて語ってみたい。

そもそも、弱者男性を苦しめているのは何なのだろうか?それは、非モテであることそのもの以上に、非モテであることからくる人格否定であると白饅頭さんのnoteでは書かれている。

モテるモテないは本来それだけの話で、人格否定につながる要素では決してない。ただ概して、日本社会では、というかどこの社会でも、女性と御縁が全くないような男性は、社会不適合者等の烙印を押されてしまい、必要以上に責められることが多い。それは確かであるような気がする。実際私もお付き合いしている方ができるまで、自分は負け組であるという感覚をひしひしと持っていたし、そう思われていただろう。そこには、名門大学に行こうと、良い就職先を見つけようと全く関係ない、負け組としての感覚があった。実際、人間にとって、自分のパートナーを見つけるというのは努めて重い課題である。ある人々にとってはそれが人生の究極目的であるかのように語られている。

ここで出てくるのが弱者男性論である。弱者男性は、連れ添う人を見つけられないというだけで、自分が負け組であるかのような烙印を押される。はなはだ理不尽だと思わなくもない。連れ添うパートナーを見つけるのはそう簡単ではないし、人には様々な事情がある。なぜかようなきつい視線に我慢しなければならないのか。ただ、ここで考えておきたいのは、弱者男性には二種類いるということである。①は彼女が欲しくてたまらないのにできない積極的弱者男性と、②は彼女がさほどほしくもない消極的弱者男性だ。

積極的弱者男性の問題は、はっきり言って自力救済以外には手がない。「女をあてがえ論」というのも聞いたことがあるが、実際のところ、彼女が欲しければ、それに見合う行動をとるしかない。清潔にして、運動して、会話の練習をして、失敗してもいいので女性を積極的に誘うしかない。そこで自分なんかが女性を誘っても馬鹿にされるだけ…と言っている弱虫については、どうしようもないと思う。欲しければ戦うしかないし、それが社会だ。甘えてどうする?幸い、振るわれるのは言葉の暴力だけである。ちょっと馬鹿にされたくらいで自尊心をめちゃくちゃにされる人もいるようだが、どれだけ自分が大事なの?と思わなくもない。そんなに自分が大切であれば、彼女なぞ必要なかろう。一生自分の利き手を恋人にしていればよい。

消極的弱者男性は、実は何も問題はない。ようは周りの声を勝手に気にしているのが問題なのである。周りに言われるのが面倒なのであれば、嘘でも適当についておけばよい。防御のためのウソなのだから何も問題はない。彼女以外にも、人生には楽しいものがたくさんある。それを満喫されればよかろう。

弱者男性論の根本にあるのは、人間としての甘えにある。女性だけが救われるのは理不尽だー等と言っても世の中の潮流は何も変わらない。別に彼女ができてもできなくても、あなたの価値は変わらない。周りの視線が変わるだけである。そんなものを気にしてどうする?逆にほしいのならば作ればよいだけである。そもそも女性にだって意中のパートナーを見つけるのは至難の業だ。一部の強者男性に需要が集中するのであれば、パートナーを見つけるのにはそれだけの苦労が伴うわけで、決して楽をしているわけではないだろう。弱者男性を選ばないということは、それだけ自分の人生に妥協をしていないということで、むしろかっこよく見えなくもない。自分の好きでもない相手と過ごす毎日なんで地獄だろう。弱者男性の問題は、女性に非がある問題ではない。むしろ女性の強さに比較して、男性の弱さが目立つ。身の丈に合わない婚活をしている女性をみっともないと笑う暇があるなら、自分も傷つく勇気、笑われる勇気をもってやってみろという話である。

パートナーがいてもいなくても人間は平等だ。世間はそう見なくとも、自分は強く思いながらそれぞれの道を歩めばいいと思う。




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