コロナ後の未来の希望。日本は変わるのか?

こんばんわ。アヒルです。何となくインプットする気が起きないので、もう一度アウトプットでもしようかなということでコロナ後の未来の希望について書きます。コロナ後の未来についての周囲の予想を見ると、暗い予想が大半を占めているように思うのですが、私は意外とコロナ後の未来は今より住み心地がよくなるんじゃないかと楽観視しています。なので今日はちょっと気軽に、コロナ後の日本社会はこうなるといいなあという希望をもって書かさせていただきます。

人と人との距離感の見直し

コロナによる感染爆発がもたらしたものはまず、人と人との距離感の変化です。ソーシャルディスタンスの名の下、大人数の会合、新年会やら忘年会やらは忌避され、満員電車による混雑をさけるための時間差出勤やリモートワークを導入する企業も増えてきました。レストランや居酒屋には敷居が設けられ、隣の席の客とはアクリル板で仕切られています。大学での教育はオンライン化が進み、人と人とが現地に集まることよりも、教育そのものが重視されている気がします(後述します)。

正直これらは好ましい変化だと私は考えています。元から人と人との距離が異常に近く、とりあえず「集合すること」、「集まること」に重点を置く社会から、一体何のために集まるのか、その集まりは本当に必要なのかという点に改めて考えが向くようになったと思います。もとから日本人は○○会好き、出勤時間も同じが好きでおかしいなと思っていましたが、コロナはそんな風潮に風穴を開けてくれた感があります。仲良くもない人々と無理に集まる忘年会・新年会も、一人一人の体調や日常生活のペースを考えずに同じ時間に出勤して電車を満員にする日本人の奇癖もこれで見直されてくれるのではないでしょうか。また、コロナのお陰で人と人との関係性が希薄になったかと言えばそんなことはなく、むしろ自分にとって誰が大事な人々なのかが明らかになり、絆が深まった人も多いのではないかと考えています。

ポストコロナ後の社会でも、この距離感はすぐには治らないと思います。というか、それを望んでいます。コロナが作ってくれた現代日本に対する違和感が、DXの推進とともに強化され、本当の意味での人と人とのつながりが作られる世の中になるのではないでしょうか。またこのDXの推進は、東京の一極集中の是正にもつながると思います。日本には緑あふれる豊かな国土があるにもかかわらず、大都市に人口が集中しすぎています。東京だけに人が集まる現状から、DXを駆使して、場所にとらわれない働き方が少しづつ広まれば、地方創成にもつながっていくのではないでしょうか。

同調圧力の見直し

日本は安全で平和な国です。これまで世界的な危機が起こった時でも日本の平和と秩序は守られてきました。ですが日本人にとって、東日本大震災や福島原発事故の際もそうでしたが、時に日本人の敵は日本人と言える状況が発生してきました。特にコロナの自粛警察の話と言い、日本人の同調圧力の強さは、ともすれば他人に対する身勝手な正義感の発露という形で現れてきました。コロナはその日本人の風潮を浮き彫りにすることで、日本人に何が正義なのか、同調圧力に従うことが本当に良いことなのかを考える機会を与えてくれたと思っています。

マスクの着用の有無などに関連して、コロナ警察の話や、コロナに罹患した人への差別など、全ての国民が潜在的に差別する側、される側に回る恐怖を経験したことになります。この経験は強すぎる日本人の同調圧力の良し悪しについて見直す契機になると考えています。誰もが差別される側に回りうる恐怖は、将来新たな危機が発生した際や、あるいは平時であっても、差別することへの忌避感を生み出してくれるのではないでしょうか(願望です。)

教育の見直し

教育、特に大学教育についても見直される機会ができたと思います。これまでの大学教育は、学校に集まることを以上に重視する謎の儀式でした。日本のメンバーシップ型雇用慣行(スキルや経験を重要視せず、採用した後でon-the-job-trainingで鍛える方式)と相まって、勉強それ自体にさほど関心がもたれない日本の大学教育では、学校に集まりコミュニティ、人脈を形成することこそがその目的となっていました。だからこそ学校に直接集まることが重要視され、授業によっては、出席の有無だけで成績が決まるというばかげた話がまかり通りました。

ところがコロナによるオンライン教育の半強制的な普及がこの風潮を変えることとなりました。学校に行くことが禁止され、授業がオンラインに移行することで、文字通り大学の目的が、「集まって、ワイワイやって、人脈を築くこと」から「勉強すること」に再び移行することになったのです。この勉強することへの移行に伴い、今一度大学教育の意味が、就職活動とセットで問い直されるべきだと思います。「勉強すること」がメインとなったとき、従来人脈作りのためのモラトリアム機関に過ぎなかった大学(失礼)は、その本来の目的に強制的に回帰することになりました。これを機に、日本型メンバーシップ雇用の部分的な見直しと併せて、大学での勉強の意義が問われなおされるべきだと思います。コロナはそのためのいい機会を与えてくれたといえるでしょう。勉強すべきです。高等教育機関たる大学なのだから。

政治に対する考え方の見直し

国民の政治に対する考え方、特に、政策形成における科学的根拠に対する考え方も見直されてくるでしょう。コロナでは、国民が日本政府のやっていることがいかなる科学的根拠に基づいているものなのかがはっきり理解しないまま、また日本政府も政策の意図を十二分に説明することなく、国民に犠牲を強いることとなりました。これをきっかけに、政策がよって立つ科学的根拠(証拠)に対する考え方が再度見直されるいいきっかけになると思います。

なぜその政策が必要で、それはどういう根拠に基づいていて、エビデンスは何で、採用されている論理構成は何か、こういったものが透明性をもって説明されるようになれば、国民の政治に対する関心も少しは深まるのではないかと思います。いまの菅政権の支持率の低下は、政治と金の問題もあろうかと思いますが、一番大きいのは透明性の欠如だと考えています。従来から日本の政策は、その意思決定過程が明確にされることなく行われてきました。それが政治への不信感につながり、今のコロナのちぐはぐな政策形成にもつながっていると思います(GoToしかり)。コロナを機に政策の透明性の重要性が、今一度政治家に問われることになるかもしれません。

終わりに

こんなところでしょうか。コロナをきっかけにして日本社会は変わっていくのか、興味深く一日本国民として見守っていきたいと思います。住みよい方向に変わるといいなと願っています。アヒルでした。




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