散歩に行っただけの話

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 今からふた月半ほど前の話。その日はまだ五月の初めだったが、春が過ぎ、夏の訪れを感じさせる程度には暑くて、長袖で出かけることをためらわせた。日曜日の昼過ぎ。僕は作り置きのカレーを食べたあと、人の顔が無数にプリントされた田舎町を往くには少々異様な半袖のシャツを着て外に飛び出した。コンビニの発券機に用があるだけだったが、穏やかに白く降り注ぐ陽光の中で社会的な健全さを取り戻せるような気がして、カメラを片手に徒歩で出かけることにした。件のコンビニは徒歩15分ほどの距離にある。イヤホンからはサニーデイ・サービスの音楽が流れていた。

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 初夏を予感させる陽の光は、あらゆるものの輪郭をぼやけさせていた。アスファルト。田んぼ道。用水路。標識。花。倉庫。高架。全部が曖昧になって、現実感を損なわせていた。小さな頃の記憶をそのまま出力したような景色だった。コンビニで用事を済ませた僕はついでにアイスとコーラを買って店を出た。スイカを模した氷菓子。視界の中に、向こうから順に空、山、田んぼ、そして氷菓子となるように腕を持ち上げて配置する。ぼやけた青緑の中に浮かぶ冷え切った赤色を見て、なんだか夏をその手に捕まえられたような気分になり、僕は嬉しくなった。

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 アイスを頬張りながら、僕は遠くに見える山を目指して歩き出した。本当に山に向かおうという考えはなかったが、とにかく歩き出すための目標が必要だった。歩を進めるにつれ、次第に周囲は田畑だけになって、ところどころ朽ちているアスファルトの道だけが向こうの方に真っ直ぐ伸びている。まるで水面に浮かぶ橋のように見えた。その頼りない橋を往くものは僕以外にはいない。そのことが嬉しくなって僕は鼻歌交じりに歩いていた。ひょっとしたらスキップもしていたかもしれない。そのくらい僕は上機嫌に田舎道を進んでいた。

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 かなり歩いたが、最初に目指した山々に近づくことはなかった。その代わり、私鉄の高架下(田舎だけに小さな電車で、単線の上に一車両でいつも走っている)までやってきた。右手には田畑の上を延々と続く高架が見え、左手には一級河川を渡る錆びついた鉄橋が見える。暑さに参りかけていた僕はわずかでも涼もうと、はたしてその案が上手くいくかはともかくとして、水辺を求めて河原のほうへ向かうことにした。土手に上り、一層ボロボロになったアスファルトの道路に立った。道路のひび割れからは草花が好き放題に伸びている。僕は車がごくたまに通りすぎるだけの道を歩き始めた。流石に大きな川だけあって、土手の上はそれなりの高さだ。それに加えて僕の住む町は低く、平らになっていたので、そこからは町の様子が一望できる。(というと少し大げさかもしれない)一昨年の豪雨災害を経験したこの町の景色は、やはりそれ以前のものとは異なっていた。古い民家が密集していた地区は、すっかりまばらになり、ところどころで家の骨組みがむき出しになっていたり、ブルーシートが屋根の被せられているのが見える。その一方で、再建した家々は新品同然のやたらとつるつるした屋根瓦の上に、太陽光発電のパネルを輝かせるなどしている。僕は不思議な気分になって街を見下ろしていた。これまで、生き物のように時間とともに緩やかに変化していくはずだった街がその連続性を失い、急激に変化したことをどのように受け入れたら良いかずっと分からないままだった。目の前の景色はその二年前から再び緩やかに変化している。街がまた緩やかな時間の流れに乗れたような気がして少し安心した。陽はゆっくり傾き始めていた。

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 街を背にして川を眺めた。中州に密生していた木々は未だにその腰を折ったままだった。幹も枝も折れ曲がって水面に突き刺さっている。熱帯気候で見られるような景色を思い起こさせた。もっとよく見ようと目を凝らすと、温帯地域に現れたマングローブを観察しようと家族連れが浅瀬を渡って中州を散策していた。子どもたちは折れ曲がった木々を指さし興奮していたが、父親はそれ以上に興奮しているように見えた。僕もそれに倣って足を濡らしながらマングローブに駆け出したかったが不審者として通報され、街中に悪名が知れ渡ることを思うと、辛うじて踏みとどまることができた。結局、突発的(あるいは計画的)自然教室を行なっている家族を後目に、僕は土手を下りて、川の流れの穏やかな場所で足を冷やすだけだった。足指をすり抜ける水の流れは温くまとわりつくようだったが、それでも気持ちがよかった。水は透き通っていて、水面と砂利の間で小さな魚が無数に泳ぎ回っているのが見えた。僕が足を動かすたびに、魚たちは慌てふためくように逃げ回っている。中州の方から先ほどの家族連れの歓声が聞こえる。少し離れた河川敷のサッカー場からも叫び声が聞こえた。僕は幸せそうな声に挟まれながら足元の魚の群れを見つめている。

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 浅瀬を離れて河川敷の砂利道を歩き出した。サンダルの底に貯まった水を散らしながら、真白い石の道をひたひたと濡らしながら歩く僕は、傍からみれば妖怪じみていたかもしれない。足を早く乾かしたいため、できるだけたくさん陽に当てようと足をまっすぐ伸ばし、腰の高さまで高く上げるような奇妙な歩き方をしていたため、なおのこと不審に見えていたはずだ。しばらく歩くと、サッカー場の脇の道に合流した。サッカー場は手入れのされていない芝生で、コート上ではぽつぽつと数人のグループが点在していた。それぞれのグループはお互いに十分干渉し合わない距離を保っているようだった。その内の一つ、くすんだ金髪に浅黒い肌がボールを囲んで談笑する集団とすれ違った。この町ではそういう姿の人間は珍しくなかった。そして、往々にして、そういう見た目の人は年齢が分からない。日焼けした浅黒い顔つきは、相応の苦労を重ねてきたように見えるし、しかし眼差しは少年のような純粋さをはらんでいる。光沢のある素材のユニフォームがぴっちりしており、下腹が少し膨らんでいるのが伺えたため、僕は彼らを中年の集団だと結論付けた。彼らはニカリと笑って白い歯を見せていた。さらに歩くといくつかの自転車が停まっているのが見えた。自転車の後輪部分には所属する高校のラベルが貼られていた。地元では割と有名な進学校だ。振り返ってコートの中心の方を見ると、高校生らしき集団が輪を広く作ってボールを蹴り合っていた。お互いの名前を呼び合っているような声が聞こえる。忙しなく動く彼らの脚を見ると、僕も走り出せるような気持ちになった。実際に走り出そうとしてみたが、濡れた便所サンダルでは足がもつれて転びそうになってしまった。ふと笑い声が聞こえた。それが先の家族連れか、それとも浅黒い肌の中年たちか、忙しく動く高校生たちのものだったのかは分からなかった。いつの間にか街のそばまで来ていた。車が行き交う鉄橋下の中州には菜の花がこれ以上ないほどに咲いていた。

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