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「自分を大事にする」ということ

わたしの原動力は「コンプレックス」だった。
ここが嫌だ、これも嫌だ、もっとこうだったらいいのに。悔しい、悲しい、負けたくない。
そんなふうに、自分の嫌いなところから生まれる負の感情を、前へ向くためのガソリンに変換している。悔しいから頑張れるし、悲しいから乗り越えられるし、負けたくないから勝負し続ける。劣等感は、全てのエネルギーの根源だ。

もしもわたしが完璧な人間だったら。
きっと、こなせなかったことがいっぱいある。もしも顔がスーパー可愛かったら、そしてそれは周りが認めるほどのレベルだったとしたら。わたしは今、可愛くなる努力なんてしていなかっただろうから、メイクやファッションに興味を持つことはなかったかもしれない。可愛くなりたいと願う女心の強さを、知ることはなかったのかもしれない。当然、今記事を書いていないだろう。
あるいは、なんでも完璧にこなせて失敗なしのハイスペックウーマンだったとしたら。きっと挫折を知らなかっただろうから、落ちて落ちて落ち込んで、それでもなんとか底から這い上がって前に進んでいくという根性が一切なかったかもしれない。なんて弱いのだろう。
失敗とは、財産なのだと、この年になって実感する。

可愛くなくてなにもできなかったから、逆に吸収できたことがあるのだ。
未完成でよかったと、やっと感謝できたこの頃。わたしはこれからもコンプレックスと向き合っていくと決めている。
こう思えるまでに、23年かかった。きっとそんなに長くはない。

マイナスの感情というのは、一体全体どうしてこんなにも大きな力を秘めているのだろうか。褒められれば疑う癖に、少し貶されるとそれを100倍にして受け止めて、勝手に傷つくことが多い人生だ。マイナスの引力に、わたしはいつも勝てずに引きずり込まれる。一旦飲み込まれて、そこから這い出て、その経験をバネにして次へ進むのだ。それができるようになるまでここまで時間を費やしてしまった。

その一方で。
どう考えても言われたら嫌なことを言われた時、どこかで安心するのはなぜなんだろう。
お褒めの言葉は素直に受け止められないのに、傷つく言葉はすんなり心に入ってくる。
まるで、心のどこかで「わたしなんて、貶されて当然の人間だから」と納得したがってるみたいだ。
嫌がっているのに、甘んじて受け入れているのはなぜだろう。嫌味を疑わないなんて、心がどうかしているんだろうか。

そういえば、昔から「ノー」と言えない。正確には、「ノー」と言う気力がない。わたしにとって、他人のお願いを断るというのは、とても体力を使う行為である。

「これやっといてね」という無茶なお願いにも首を縦に振って会話を終了させる。「今から来て」という自己中な誘いにも、だいたい乗ってしまう。それは、「今断ったら嫌われてしまうかもしれない」というような怯えからくるものではない。なんとなく、「ノー」と断る方が疲れそうだな、と思ってしまうからだ。その誘いを断る理由はいくつか思い浮かぶのだけれど、「ノー」というよりはその場を凌ぐ道を選んでしまう。何故だろう。多分わたしは、何回かこれで損をしてるはずなのに。

本当はそのミスは私じゃないけれど、とりあえずここで「わたしがやりました」って言っとけば状況がおさまるんなら、まあいっかわたしがやったことにしといて、みたいなことがよくある。
未だに自分のことは、よく分かっていないような気がする。自分のことなのに。

ちょっと前のわたしは。
誰に何かを言われて、いつもくよくよしていた。どうせブスだから、どうせできっこないから。周りの言葉を鵜呑みにして、「わたしなんて」と凹んで自分を痛めつけていた。
そんなことない!わたしはかわいい!できる子!
そうやって跳ね返せていれば傷つくことはなかったはずなのに、わたしはいつも、一度受け入れてしまっていた。納得をして、自ら心を痛めつけていた。
「わたしなんて」という言葉を吐くことは、もはや一種の自傷行為だ。

そんなある日。
仲良しの先輩に言われた言葉がわたしの価値観を変えた。クヨクヨジメジメして、こんなこと言われて悲しいですと嘆くわたしに、バッサリと先輩が言い放った言葉が衝撃だった。
「もしも【自分】ではない、大切な友達・恋人が同じことをされたらどう思う?それが自分に起きてるだけだよ」

確かに、わたしが誰かにブスって言われたら、まあしょうがないよな自分ブスだしってストンと納得するけれど。
大好きな友達がブスって言われて悲しんでたら、ふざけんなよってわたしは言った相手に怒る。どの口が言っとんねん、やめて!って、怒る。傷つく言葉を吐くことは許せない。

なのに。
他人が言われたら怒るのに、自分が言われたとなると受け入れていた。貶されるのを当たり前だと思ってしまっていた。
それは、自分の価値を自分で落としていたことなのだと、わたしはその時気付いた。
それと同時に、自分に対して「ごめんね」って謝りたくなった。
ぞんざいに扱ってごめんね、って。痛かったよな、って。

自分自身のことになると、どうしても客観視できなくなる。目の前にいる人には感情移入できるのに、いざ自分のこととなるといつも答えが出ない。まあいっか、わたしなんて。
そうやってどんどん自分の気持ちを後回しにして、気づいた時には心がボロボロだったりする。

自分を大事にするということはきっと、あの先輩が言うように、大切なあの人に対する思いと同じように、自分を思いやるということなのだ。
なかなかできなかったけれど、きっと、それだけなのだ。自分なんて、と受け入れていいことは、きっともうなにもない。
自分を守れるのも、自分を愛せるのも、結局自分なのだ。
自分自身を大事にするということを、ずっと忘れてしまっていた。


どんなにコンプレックスが原動力だと謳っても。
原動力にするには、プラスの感情に変えなければならない。それにはとても、体力を使う。
自分の価値を落としてまでマイナスを増やすことはひどく体力を使うし、なるべくしたくないなと思う。
そんなことよりも、プラスを受け入れて明るい気持ちでエネルギーを作りたいと思った。

コンプレックスは今でもあるし向き合うことではあるし、それがあるから頑張れるのは本当だ。なりたい自分になるために、コンプレックスはこれからも健在していてほしいとまで思う。

だけどやっぱり、自分自身のことは諦めずに愛したいなと思うのです。ブスだと言われて受け入れてクヨクヨして底に落ちて這い上がるよりも、まず。
それを言われた自分を労わり、そこから「見てろよ!可愛くなるから!」くらいのポジティブさにしたい。
どうせエネルギーに変えるんだったら、ダメージ少なくして、自分を守りたい。

だって、その方が人生楽しそうだし。自分を大事にして初めて人生謳歌できそうだし。
そんな風に思った初秋でした、とさ。

#エッセイ



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