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「蝶々結びってね、二回するとほどけないのよ」

知人とお出かけをした時のこと。ついさっきまで晴れていたのに、空が急に暗くなって雨が降ってきた。雨粒はどんどん大きくなって、蒸し暑かった気温が一気に下がって、ああこれが梅雨ってやつなんだって心の中で思いながら小走りでバス停に走った。帰路のバスが来るまでにはだいぶ時間があったから、少し古びたバス停のベンチで、座ってその時を待つことにした。


空ってとっても自由だな。さっきまではご機嫌だったのに、いきなり機嫌を変えて、勢いよく大泣きしたりなんかして。人間の予想を簡単に裏切って、笑ったり怒ったりする。空ほど感情豊かな存在はないと思う。

雨が降り出してすぐのこと。
ひとりのおばあさんがゆっくりとこちらに向かって歩いてきた。少しうつむきながら、雨にうたれながらバス停へと歩いてきた。わたしが座っていたベンチは座るのには3人が限界で、わたしの他にすでに別の誰かが座っていて満席だった。着く頃合いを見計らい、立ち上がって「どうぞ」と席を譲ると、うつむいていたその目がまっすぐと私を見た。「ありがとうね、座らせてもらうね」。ゆっくりと椅子に座ったその背中はまた丸くなり、目線は地面を向いている。

なかなか来ないバス。止む気配のない雨を永遠と降らす、分厚い灰色の雲。呑気な雨をぼーっと眺めていた時、
「靴紐ほどけてるわよ」
隣から優しい声がした。みると、わたしの右足の靴紐が解けている。履き古した青いスニーカー。雨に濡れた紐は、しんなりと輪を崩して横たわっていた。おばあさんはやっぱりちょっと俯いていたけれど、わたしの靴を見る目線は柔らかい。
「ありがとうございます」
小さく会釈をして、かがんで靴紐を結んだ。湿った紐は、冷たい。キュッと結ぶと、含んだ水滴がじわりと浮かび上がって、また紐に吸い取られていった。
よし、と起きあがろうとすると、また隣から声が聞こえた。
「もう一回よ」
「え?」
思わず聞き返すと、優しい顔と声で彼女はこう言った。

「蝶々結びってね、2回するとほどけないのよ」

今になって、急に思い出したあの言葉。
なぜ、ふと浮かんだのだろう。
ただ知恵を教えてくれたと思えばそこまでだけれど、今思い出したことが急に不思議になってきた。
あの言葉、なんだか、気になる。なぜか今、思い出した。彼女が教えてくれたことには、もっと別の意味があるように思える。

そういえばあの日から、わたしの青いスニーカーは靴紐がほどけない。もともと歩き方が雑で、走ったり飛んだり慌ただしいわたしだから、靴紐はいとも簡単に解けてしまうのだけれど、二回結んだあの右足だけは解けていない。
新しいスニーカーを買って放置していたそれを久しぶりに履いた時、なんだかいつもより履きやすいなと気づいた。どうしてだろうと考えたら、すぐにわかった。紐が、ほどけない。どんなに暴れてもほどけない。どんなに動き回っても、他人にひっぱられても、なかなかほどけない。とても強く、ほどよい力加減でわたしの足にフィットしている。

わたしにその知恵を教えてくれたあのおばあさんは、今頃どこで何をしているんだろう。彼女はとても綺麗で、丸い猫背がやけに立派に見えて、曲がり方さえも美しかった。
今この時、どこで生きているんだろう。誰といるんだろう。もうどこに行っても会えない気がしているけれど、わたしに話しかけてくれた優しいその声は今でも覚えている。

思った。これは、今のわたしだからこその思い。

スニーカーの靴紐って、人の「覚悟」みたいだ。

最初に結ぶのは、義務だ。結ばないと、恰好がつかないから。前に歩いていけないから、みんなが結んでいるからそうしているだけ。体裁でも人に語れるような「覚悟」を心の中で約束のように結ばないと生きていけないから。前に進むために、つまずかないために、結ぶ。歩むために二つの輪っかをつくる。
時間が経てばそのうちにほどけてもつれて、誰かにふまれて無駄にきつくなって、何度もほどけて嫌になって。崩れるたびに結びなおすけれど、やっぱりほどけてまた立ち止まる。

靴紐って、厄介だ。気にしなければほどけたことを無視できるのに、なんなら気づかないことだってあるのに。一度解けているのを見てしまうとなんだか気になる。
無視すると、前に進みづらい。進みたいのに、進めない。進みたいのに、嫌になる。

わたしにとっての靴紐は「覚悟」だけれど、誰かにとってはもっと別の意味を持つのかもしれない。もっと別の何か、大切にしているものに例えられるのかもしれない。
靴紐って、不思議だ。
みんなに聞きたい。二回結ぶとほどけないものって、なんだろう。

覚悟なんて、あってないようなものだ。自分に言い聞かせて一度結んだ自分との約束も、気づけば簡単に破ってしまって、自分が嫌になったりもする。

でも、くじける自分をわかっているからこそ、自分の脆さを理解したからこそ、人は強くなれるのかもしれない。弱い自分なりにおぼえた覚悟を守り通すために、人はどこかで二回目の覚悟をするのかもしれない。
何度くじけて諦めても、もう一度己を叩き、自分をやりなおすために。また走り出すために、二回目の誓いをたてるのかもしれない。
自分に約束をするのは、何かが起きたその後の二回目だ。あえて自分で下を向いて立ち止まった時にまた結び直すのかも知れない。そこで結ぶ紐は、きっと強い。
その術は、自分できづくこともあれば他人に教えてもらうこともあって、タイミングは人それぞれなのだろう。

靴がひとつでなりたたないように、関係性は問わず人にはパートナーが必ずいるように思える。家族でも友人でも恋人でも、一緒に歩んでいきたいと思う誰かが、側にいるのだろう。同じような存在にみえて、じつはまったく逆の作りをしていて、一緒にいるようで同じタイミングで歩いているように見えて、全く違うペースで前に進んでいる。同時に歩き出しても、どちらか一方が早く傷んでしまうこともあって、そうしたら両方そろって足を止める。玄関で並んで一緒に休む。靴って、人みたいだ。

ひとりで生きているように見えて、隣には誰かがいる。わたしの靴紐がほどけたら、誰かが立ち止まって待っててくれる。そうやって、人生が成り立ってきたのかもしれないと思うと、少しだけ優しい気持ちになれる。
あの日、わたしに話しかけてくれたおばあさんみたいに、優しくなれる気がする。わたしにはまだ、あれほどまでに柔らかさを備えることはできないけれど、でもなんとなくわかる。

人は、一度きりのきっかけでは生きれない。
二回目のそれで、道が決まるんだろう。

ほどけて、結んで。

結ばれるんじゃなく、自分の意志で結んで。そうやって前に進んでいく靴みたいに。靴紐みたいに。
人の人生とは自分の手で決めて、その道を歩んでいくと自分で決めて、そこで出会った人との縁で成り立っていくのかもしれないと思った。一度目は必然、二回目は自分のタイミングで。歩んでいく靴が消耗品であるように、人の命も終わりが決まっている。歩むほどに、生きれる期限は決まってしまう。

歩いて走ってスキップをして。好きなように歩んでいく道で結ばれる何かが、自分を奮い立たせてくれるんだろう。下をむかないと靴紐は結べないけれど、足元をみることで自分と向き合えるのだろう。両足で立ち止まれば、一緒に歩んできたもうひとつの靴が隣にいてくれる。ひとりじゃないって、気づかせてくれる。そういう風に、人も生きているんだろう。

あのおばあちゃんに、また会えたら言いたい。
「ありがとう」って言いたい。その時には、わたしもあの青い靴を履いていたい。
靴紐よりも固く、自分の意志を持っていたい。

雨の日に会えた彼女に、敬意をこめて。

来年の今頃、わたしは靴紐を
何に例えるんだろう。



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