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他者がいてはじめて「ひとり」になれるのだ

最近、飲み物が変なところに入ってむせることが増えた。アッツアツのお茶が好きなわたしは、一日に何度か高温のそれを飲むのだけれど、熱い液体でむせるのは死に等しい。ブフォと噴き出して何秒かすると、間違って入った液体を吐き出そうと肺が収縮しだして、一気にせきこむ。気が済むまでゴホゴホとやり、大体最後はちょっと泣いている。あの苦しさはもう二度と味わいたくないのに、ふと気が緩んで飲み物を勢いよくすすってしまうとまたむせる。とことん学習能力が低いわたしである。

以前までむせることなんてなかったのに、最近になってやけに回数が増えたので、ちょっと心配になった。なんせ、世間を騒がせているあの三文字のウイルスも肺からくるらしいし、このむせかえりも肺に異常があるからだったらどうしようとドキドキする。
取り急ぎ「飲み物 むせる 最近」でネットで検索すると、ずらりと記事がでてきた。そのうちのいくつかを覗いてみると、多くに「喉の筋肉の衰え」と書かれていた。「喉のポンプ機能が弱まっている」「若者にも増えている」「発声のトレーニングで喉を元気に!」だそうだ。情報はたくさんあるが、自分がどの状況なのか真相はわからないので、近々病院に行って診てもらおうと思っているところではあるが、「喉の筋肉の衰え」というところにひどく納得をした。

そういえば、最近ちゃんと会話をしていない。

喉を使って、誰かと対面で会話をするということをしていない。外出の自粛をしているからだ。いつも、口の入り口だけでボソボソと言葉を発しているだけ。
自粛期間が始まったばかりの頃には頻繁にしていたオンライン飲み会にも、今では参加することが少なくなった。わたしがいないところでも飲み会はたくさん開催されているはずだが、そのどれにも顔をだすのが億劫になった。オンライン飲み会を断る理由も特別に見つからないけれど、断らない理由も見つからなかった。話す人を無意識に選ぶようになって数日たてば、自粛になる前と変わらず、会っていてもたまに電話したり話したりする人とだけ電話をするようになり、さほど喋らなくても許してくれる人に甘えて通話するようになっていた。オンラインで人と会うことを、話すことを、自分から避けている。

近頃、どうにもきちんと話す気にならない。話したい人はたくさんいるはずなのに、目と口と耳だけでコミュニケーションをとることに、もう疲れてしまった。話しているのに、話していない、話している相手がいないみたいな変な感覚なのだ。オンラインでの無機質な交わりに、嫌気がさしてしまったのだろう。そこに人情があることもわかっているけれど、感じ取れないことが多すぎて、感じ取れない自分も不躾に思えて、考えすぎて嫌になった。オンラインで話してても、相手の温度感が分からなくて変に不安になることがある。動くことなく眠っている五感の残りが、もてあましたようにずっとくすぶっている。

壁の薄い軽量鉄骨の家だから、大声で笑うこともできなくて、面白いことがあっても喉の奥で殺すようになった。先日、はちゃめちゃに面白いことがあって思いっきり笑いたかったのだけれど、ご近所さんのことを考えたらできなくて押し殺して笑っていたら、次の日腹筋が変な筋肉痛になった。新手の筋トレである。
その一方、隣人はやけに大きな声で笑うし、こちらに響くほど足音がうるさい。生活のすぐ隣に、ぴったりとくっついて住人がいることに違和感を感じる。いつもは朝と夜だけ同じ建物内にいるのに、ひっきりなしに隣で他人の生活を感じるのが、窮屈に思えてしまう。

気が付けば、機械的に開く癖のついていたSNS。生意気なことに、そのどれもが今のわたしにとっては苦しくて仕方がない。Twitterを開けば誰かの生活が、すぐそばにある。顔も声も温度も知らない誰かの言葉に、はたまた顔も声も温度も知らない誰かが反応している。どうせ何したって、粗探しをする誰かに批判をされるのがSNSってやつだけれど、どんなに覚悟をもって発言をしていても、牙をむいたまま暇つぶしを探している人間が増えた今の世の中では、全フィールドが戦闘モードで覚悟もクソもあったもんじゃない。どれに「いいね」をすればいいかわからないままさまよって、それでもみつけた楽しい何かをかいつまんで、雑踏の中をすり抜けていく。

Instagramを開けば、素敵な暮らしがたくさんあって眩しくなってしまう。丁寧な暮らしの間反対である「適当な暮らし」をしてしまっているわたしは、たまに頑張っておしゃれなことをしてみるけれど、出来上がったものはいつもなにかが違う。雑な暮らしが一番楽だけれど、丁寧できれいなものが「いいね」とされる世界線。うまく隠れて適当に生活してきたというのに、どうしたものか。

みんな、少しずつ無責任になっていく。普段は見せない牙をここぞとばかりに見せあっている。自分の中にある「正解」を、むき出しにしている。思いやりなんて語ることは、今のインターネットでは野暮なことなんだろうか。
どうしてこうも、人の発言に一喜一憂してしまうのだろう。ふと我に返れば、どうして人の発言をこんなにも流し見して、求めていない情報に飢えていたのか、過去の感覚も思い出せない。SNSという海を上手に泳いでいたあの頃の自分は、もういない。

なんでこんなに、ひとりになれないんだろう。

ひとりでいるはずなのに、ずっとひとりじゃない。
そんな奇妙な感覚がつきまとう。

本当の意味で「ひとり」になれない苦しさに溺れている。深い深い海に沈んで、真っ暗な深海で、得体のしれない魚がうごめくのを海水が動くことだけで感じているだけ。この部屋には確かにわたしという存在しかいないのに、そこに縮こまるわたしは「ひとり」になれない。そればかりか、普段よりも格段に何かに囲まれて生きている息苦しさまで感じてしまう。頭の中にも、スマホの中にも、他人の生活が詰まっていて、一日の終わりに感じた他人からの何かをリセットできないまま誰かの何かが体に残る、その繰り返し。普段ならば直接会って話して解決できることも、オンラインでは消化不良のまま終わってしまう。そうして残った誰かに対するモヤモヤが蓄積して、地に足がついていないおばけのようにわたしの後ろにいるまま。

見なければいいのに、義務のような感覚で見なければと思って開くSNS。わたしはもう、SNSが出すネオン色の麻薬で脳内がいっぱいなのかもしれない。気にしなくていい誰かの発言に、無を装ってもどこかで一喜一憂している。甘ったれたまま揺らぐ自立心に、あったはずの自分の「真ん中」がいかに脆かったかを知る。

でもどうしたって、この期間。何かを言わないと、何かをしないと、何かひとつでも変えないとと、誰に任されたわけでもない「何か」に追われてしまうのだ。ひきこもっているこの期間に、「何か」をしないといけない謎の義務感に襲われている。そしてそれは、わたしだけではないように思える。
みんなちょっとずつ何かから逃げて、何かを手にしようと必死だ。目に見えない、自分が創った「何か」に追われて、逆にわたしもソイツを追いかけている。この焦り自体が、自意識過剰なのかもしれないとさえ思うようになった。天才でもなんでもなく、自分には何もできないという事実を受け入れて何もしない選択をとれる大人の方が、こういう時にはよっぽど需要があるんだろう。

人に対面で会えていたあの頃、「ひとりが好きだ」という感覚を大切にできていた。以前の記事にも書いたように、わたしは一日の中にひとりの時間がないと死んでしまうマンだった。相手に対しての好き嫌いに関係なく、ひとりでいることでリセットして、他人といることで得るあれこれを噛みしめる、ひきこもりの時間が必要なのである。他人といることで知る世界を、ひとりになって整理したいから、一人の時間が必要だと解釈していた。

だけど今は、その他人という存在がとても中途半端で、不確かだ。SNSを開いて覗くアイツの生活も、オンラインで会う愛しいみんなも、いていないような虚像に思える。
得た情報を、上手に処理できない。いるようでいない、でもやけに存在感のある電子的な命の数々。対面で会って、五感でコミュニケーションをとることがどれだけ人間にとって大切かを、こんなときに実感してしまう。いるんだか、いないんだか、わからないんだ、なぜなんだ。どう考えたって相手は生きているのに、目の前にいるかと言われたら絶対にいなくて、でも、いる。でも、いない。いないのだ。
今のわたしが見ているのは、みんなが自分で切り取って差し出してくるたった一部分。いつもそうであったはずなのに、より一層その切れ目を強く感じてしまうのは、わたしも自分を切り取って小出しにしている張本人だからだ。断片では、向き合えない。感じ取れない。

他人のいる世界で生きるからこそ、自分がいるのだと知った。他人と対面するからこそ、ひとりになれるのだと知った。わたしという形がここまで生き延びて来れたのは、他者がいたからこそなのだ。誰かがいるから、自分がいる。他人という鏡を通して、自分とみつめあえていたのだろう。
今、切り取られた破片をいくら集めても誰にも触れられず、不確かな存在に心がざわついて窮屈になるのは、存在を五感で感じ取れず、電子になって届けられるものでしか判断できないからだ。いないものをいると錯覚して、みつめあうべき他人をみつけられないからだ。だから、いつもは見逃しているはずのどこの誰かの発言さえも破片として拾いそうになってしまうのだろう。いくらあつめても、パズルのピースは埋まらない。

ひとりの時間は、他人ありきのものだ。私という存在は、誰かありきのものだ。そんな基本的なことで苦しんで、飢えて、むずがゆさに掻きむしって、気がつけば傷だらけ。自分がぐちゃぐちゃなことを言っている自覚は十分にある。

はたしてわたしは、会いたい誰かにとって必要な「何か」になれているんだろうか。わたしと合うことで見つめられる誰かの「何か」になれているんだろうか。ひとりの時間に咀嚼する「何か」を与えられているんだろうか。
何一つ答え合わせはできないけれど、わたしはわたしをつくってくれたこれまでの出会いが、どうしようもなく愛おしいということだけはわかる。今は破片しか見せ合えない不確かなわたしたちだけれど、いつか。そろったパズルのまま、向き合える日がくることだけを願う。

いないようでいる何か、いるようでいない誰か。頭の中で朧げなさまざまが行き交って苦しいままだけれど、向き合うべきは自分であることに変わりはない。その向き合い方がわからなくて、何かに流されそうで苦しんでいるのだけれど、そんなのは言い訳なんだろう。そんな戯言を言っていては人生はあっという間に終わる。
整理整頓できていないまま、失ったひとりの時間を取り戻せずただ堕落していては、いざ会えるようになった時に会いたい人に顔向けができない。ひとりの時間を取り戻すには、どうしたって愛しいみんなに会うことしか解決策が思い浮かばないけれど。
拾って捨てて、切って切り取って。自分なりに人を理解することを忘れずに、他人を理解することを忘れずに、自分をみつめることを忘れずに。

今できるたったひとつのことは、「インターネット越しにわたしがみているものはすべてじゃないこと」、「それでも何かの一部であること」、矛盾したこの二つを上手に受け止めるだけだ。できることは、それだけだ。

いつかまたひとりになれる時間は絶対にやってくる。
だから、今はこの賑やかな混沌を楽しんでみようと思う。

それでいいよね、いいだろう。

#エッセイ  




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