ひまわり色の思い出

「季節ハズレの海も悪くないねぇ・・・・・・」
「いやいや!!寒いだけで何もいいことねぇよ?!お前もさっきから震えてるじゃねぇか!」
 そう叫んだ俺の方を見るマリは、唇をすっかり青くして、普段から悪い顔色がより一層悪くなっている。心配させまいと微笑んでいるのだろうが、それがより一層儚さを増すことになっていることに、マリは気がついていないのだろう。
 ひと昔前、雪解け水で川が増水する前は、マリの好きなひまわりの花のような、見ているこちらが思わず目をそらしてしまうほどの眩しい笑みを浮かべていたのが嘘のようだ。こんなことを言えば、また悲しませてしまうかもしれないが、彼女が儚げな笑みを浮かべるようになって嬉しいことといえば、俺が変なことを言った時にマリが暴力よりのツッコミをしなくなったことぐらいか。もっとも、それは俺自身がマリに余計な体力を使わせないように、極力変なことを言わないように努力している、ということもあるだろうが。
「とにかくどうしていきなり海に行きたいなんて言ったんだよ。どんなに反対してもどうしても行くっていうから連れてきたけどよ・・・・・・」
 断固反対しても良かったが、そうすると俺が目を離している隙に一人で海に行ってしまう、ということも想像できたので、仕方がなく海に連れてきたのだ。最悪の場合、一人で海に行ってその場で倒れる、ということも考えてしまう。
「ん?んー・・・・・・。季節外れの海ならそんなに人もいないかなぁ、と思って」
 確かに人はいなかったが、これだけ寒ければよほどの物好きでなければ、海には近づかないだろう。人がいないのは当然の環境だった。
「ほら、もう海は見ただろ。さっさと帰ろうぜ。んで、暖房の効いた部屋でゆっくりしよう」
「えぇー・・・・・・?またまたぁ。そうやって部屋の中でエッチなことするつもりでしょう」
「む・・・・・・。空気と展開によってはそうなるかもしれない」
 俺の言葉を効いたマリがくすくすと笑う。
「正直でよろしい。でも残念でした。今日はまだ帰りませーん」
「・・・・・・なんで」
 これまではマリの主張を一度聞き入れた後、俺が俺の主張をすれば、大概聞き入れてくれていたのに。どうしてここ一番、一番聞き入れて欲しい時にそんなわがままを言うのか。俺は思わず声が硬くなるのを自覚しながら、マリにそう問いかけた。
「そのぶんだと気がついてるんじゃないの?どうして私が冬の海に来たいなんて言ったのか。そして、どうしてまだ帰らないって言ってるのか」
 そのことを認めるのが嫌で、俺はマリから視線をそらす。
「ねぇ、いつ私と出会ったのか、覚えてる?」
 覚えていない。いつからか、マリが儚げな笑みを浮かべるようになったことは覚えているし、そうなる前はひまわりのような笑みを浮かべていたのも覚えている。でも、いつ出会ったのかは思い出せない。視線を逸らした俺を、マリは決して許してくれない。
「ねぇ、私の連絡先知ってる?」
 わからない。連絡先を何度か聞いたことはあるし、マリが教えてくれたのを覚えているのに、どうしても思い出せない。認めたくない事実を、マリは俺に突きつけてくる。
「私の家は?」
 知らない。会いたいと思った時にはマリと出会っていたし、外で過ごす時以外は俺の部屋で過ごしていたから。記憶にあるのはマリの家に行ったという事実と、庭一面に植えられたひまわりの花。どこにマリの家があるのか、それを思い出そうとすると、なぜか靄がかかって思い出せない。
「ほらね。それが理由。私はもうここにはいられない。だから、もうここから離れられない。最後だから、これ、返すね」
 そういったマリが、うなじに手をかける。マリが何をしようとしているのかを察した俺は、とっさにその両手を握る。
「それはいやだ」
 両手を握った先、マリが困ったように眉尻を下げる。
「いやって・・・・・・。子供じゃないんだから」
「いやだって言って子供と思われるだけなら、何度でも言ってやる。いやだ。それは俺がマリに贈ったんだ。返してほしくない」
 マリの目を見つめ、その意思が固いことを視線で訴え続けると、諦めたマリが両手を下ろす。俺もマリがその行動をするのならマリの行動を阻む理由はない。
「・・・・・・ねぇ、もう手、離していいよ?」
 阻む理由はないが、手を離す理由もない。ので、マリの手を離さずにその首にかかったペンダントを見る。トップにひまわりの意匠がついたそれは、街を歩いている時にマリが見つめていたので購入したものだ。買った後ではしゃぎ、喜ぶマリに、それほど高いものでなかったと伝えると、喜んでる人に値段のことをいうなんてサイテー、と言われたのを覚えている。
 そう、覚えているのだ。少なくとも、彼女と過ごした時間がなくなったわけではない。
「・・・・・・どうしても行くのか」
「まぁ、こればっかりは私がわがまま言ってどうにかなる問題じゃなくてねぇ」
 両手を握って見つめる先、ミキの表情は困った時に浮かべるものから変わらない。そのことが、言葉よりも雄弁に告げていた。どうにもならないのだ、と。俺は視線を繋がっている両手に落とす。後ろ、絶え間なく続く波の音が、次第に大きくなっている気がする。
「思い続けるのは俺の自由だよな」
 握っている両手が強張った。
「そんな風に縛りたくないんだけどなぁ。でも・・・・・・ばっかりは・・・・・・はどうしようも・・・・・・よね」
 ミキの言葉の後半が、波の音にかき消されて次第に聞き取りにくくなる。そのことが、どうしようもなくミキとの別れを感じさせる。
「うん、だ・・・・・・、自由にし・・・・・・よ。も・・・・・・も・・・・・・れば、の話・・・・・・ど。きっと、私がいな・・・・・・れば私のことは・・・・・・ぁうから。それでも、私のことを・・・・・・覚えててくれると嬉しいなぁ」
 最後、不鮮明になり、聞き取りにくくなっていたミキの言葉だが、それだけははっきりと聞こえた。気のせいかもしれない、と思ったが、決してミキが俺との別れを望んでいるわけではないとわかった瞬間、こらえていたものがあふれ出した。
 たまらずに顔を上げる。
 しかし、そこには誰もいない。
 背後には海。正面には今にも雨か、それとも雪でも降ってきそうな雲に覆われた空と、薄ぼんやりとした街並み。
「・・・・・・あれ、どうして俺、こんなところに・・・・・・」
 周囲を見渡す。しかし、周囲には俺がここにきた理由になるようなものは何も見当たらず、確かに言えるのは少し離れたところにある時計塔と、その近くに止めてある俺の愛車がそこにあるということであり、俺が車でここまできたということだ。
 首を傾げながらも、歩いて車の方へ向かう。一人でこんなところに来るなんてどうかしている。夏ならまだ、水着美女を探して海にきたかもしれないが、こんな、もう水着が時期外れになっている時にわざわざ海に来るなど。
 そんな時、俺はふと頬に伝う液体の感触を得た。何かと思えば、それは俺の目尻から流れ落ちたものらしい。俺は突如として流れ出たそれに戸惑うばかりで、どうすることもできなかった。


 それから、頬を濡らすものは車に乗ってからもしばらく続いた。原因もわからず、ただ流れ出るそれに、こんな体調で長距離運転をするわけにもいかず、すべてが枯れるまで俺は車で座っていた。幸いにして空から降ってくるものはなく、運転席に座れば波打ち際がよく見えたので、運転ができる体調になるまで砂浜を洗う波を見続けていた。
 家に帰り着いてからも、体調が万全とは言えなかった。
 家でゆっくりしていても、どこか落ち着かない。まるでただ座っているということを、背後に座っている誰かに、無言で咎められているかのような感覚を得る。
 たまらず家を飛び出し、車に乗って目的地もなくひたすら走る。同じところを周回するのではなく、知らない道を、まるで何かを探しているかのように走り続ける。
 そんな日が、あの、海で海と同じものを目から流していた日から続き、季節はいつの間にか夏になっていた。
 その日も俺は車を走らせ、知らない道をただ、目的地もなく走り続ける。
 走り続けるうちに、俺はなぜか既視感を覚えた。
 知らない道、知らない風景。しかしなぜかこの道がどこに続いているのかを知っている。
 記憶の命ずるままに、俺は車を走らせ、やがて白い壁の大きな屋敷にたどり着いた。
 車から降り、ふらふらとその正面へ向かう。玄関のノッカーを叩き、家人を呼び出すが、しばらく待っても反応がない。いつまで待っても反応がない玄関から離れ、家の外周を回ってその裏手に。
 そこには、一面のひまわり畑が広がっていた。
 引き寄せられるように、ひまわり畑へと向かう。
 真っ先に目に入ったのは、花弁の下でなにか光るものがついたひまわり。
 なにか思い入れがあってつけているのだろうか、と疑問に思いそのひまわりに近づく。
「マリ・・・・・・ッ!!」
 そこにあったものを見て、思わず膝をついた。
 ひまわりの花にかけられていたのは、見覚えのあるペンダント。
 それがなにかわからないが、気がつけば俺の口からは人の名前が漏れ出ており、その名を口にするだけで胸の内は引き絞られた。
 その時に気がついた。俺はこれをずっと探していたのだと。
 まるであの日の再現のように、俺はただただ、そこで泣き続けた。
 溢れ出る、愛おしい彼女の記憶とともに。

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