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音楽史・記事編111.ウィーン・ドイチェスハウス、マリア・テレジアとの確執

 1781年6/8、25歳のモーツァルトはウィーンのコロレド大司教の実家であるドイチェスハウスの中庭でアルコ伯爵に足蹴にされ、父レオポルトの仲裁の甲斐もなく、とうとうザルツブルク宮廷の音楽家としての地位を捨て、音楽史上初めてフリーランスとしての作曲家として独り立ちすることとなります。モーツァルトは女帝マリア・テレジアやザルツブルク大司教コロレドに疎まれ続け、音楽史上における最高の作曲家であったにもかかわらず、経済的には恵まれない生涯を送っています。なぜマリア・テレジアがモーツァルトを見下したのか見て行きます。

〇マリア・テレジア、国難を乗り越え、フランス、ロシアと同盟を結ぶ
 マリア・テレジアの父親である神聖ローマ帝国皇帝カール6世は、スペイン国王継承に伴いフランスと戦い長くスペインに出征していました。カール6世は、もともとスペイン王家はカール5世の時代にはハプスブルク家の一部であり世界帝国としての繁栄を謳歌していたのであり、スペイン王家はフランスの血筋ではなく、当然ハプスブルクの血筋である自身が王となるべきとして戦ったのでした。しかし、スペイン王位はフランスに奪われ、30年戦争以来国力を弱めていた神聖ローマ帝国ハプスブルク家は、さらに弱体化し、さらにこの時期に、カール6世は死去し、若い一人娘のマリア・テレジアが残されます。このときマリア・テレジアはロートリンゲン公フランツ・シュテファンと結婚していましたが、フランツ・シュテファンは政治力、外交力は全くなく、結婚にあたりロートリンゲン(ロレーヌ地方)をフランスに割譲するという事態となり、四面楚歌に陥ります。しかも、バイエルン選帝侯がフランクフルトで選帝侯会議を開催し、自らカール7世として神聖ローマ皇帝位を奪い取るという暴挙に出ます。
 ここでマリア・テレジアは自らが王位を継承していたハンガリー軍の支援を得て、バイエルンに攻め込み、バイエルンのカール7世はフランクフルで病没し、マリア・テレジアは夫のフランツ・シュテファンを神聖ローマ皇帝位につけハプスブルク家の復興を果たします。しかし、プロイセンと争ったシュレージェンはプロイセンに奪われるという結果になり、マリア・テレジアはプロイセンのフリードリヒ2世を生涯の仇敵として恨み続けることとなります。
〇長男ヨーゼフ、フランス王家のイザベラを妃に迎え、啓蒙思想の影響を受ける
 1756年、マリア・テレジアは長く敵対してきたフランスと外交方針を転換させ、ロシアとともに3国同盟を結び、プロイセン包囲網を完成させ、長男ヨーゼフ・ベネディクトの妃にフランス国王ルイ15世の孫であり、スペイン国王フェリペ5世の孫であるパルマ公女イザベラを迎え、さらに末娘のマリア・アントニア(マリー・アントワネット)のフランスへの輿入れの約束を取り付けます。長男ヨーゼフの妃となったイザベラは才能豊かな夢想家であり、ヨーゼフは深く愛したにもかかわらず、わずか3年で世を去ることとなります。後に皇帝ヨーゼフ2世は大胆な啓蒙主義の改革に乗り出しますが、これはイザベラの影響によるものと思われます。フランスはオーストリアと同盟を結ぶものの、もともとはプロイセンと友好的な関係にあり、プロイセンのフリードリヒ2世の啓蒙思想はフランスに大きな影響を及ぼしています。イザベラの死後、マリア・テレジアはヨーゼフ2世の後の妃に、あろうことか皇帝位を簒奪したミュンヘンのカール7世の娘マリア・ヨゼファーと政略結婚させますが、これによりヨーゼフ2世と女帝マリア・テレジアとの確執はますます深まることとなったようです。
〇マリア・テレジア、イギリスを訪問したモーツァルト父子に憎悪を感じる
 西方大旅行を終えたモーツァルト一家はウィーンを訪れ、ウィーン宮廷に伺候します。マリア・テレジアはモーツァルトの父レオポルトには見向きもせず、母のアンナ・マリアにイギリス訪問について聞き糺しますが、モーツァルト一家がオーストリアの敵側のプロイセンと同盟関係にあるイギリス王室を訪問し歓迎されたことを聞くと、憎悪が沸き上がったものと思われます。今回のモーツァルト一家の西方旅行にはもともとイギリス訪問は予定にはなく、パリの貴族からの勧めによって父レオポルトが決断したわけですが、7年戦争でフランスと敵対していたとはいえ、過去にはイギリスの音楽家ダンスタブルが百年戦争中にフランスを訪問し新しい和声法を伝えたように音楽家が敵対する国を訪問することにそれほどの抵抗はなかったものと思われます。モーツァルトはイギリス訪問で音楽家として大きな成長を遂げています。
〇ヨーゼフ2世、モーツァルトを擁護する
 しかし、妃のイザベラから啓蒙思想の影響を受け、プロイセンのフリードリヒ2世を尊敬していたヨーゼフ2世にとっては、モーツァルト一家がイギリスを訪問したことについては何の問題もなく、音楽家として大きく成長を遂げたことは喜ばしいことであり、後にモーツァルトがイタリア・ミラノからの委嘱によるオペラで成功した折に、マリア・テレジアがモーツァルト父子を侮辱したことについてもモーツァルトには全く非がないと見ていたようです。ヨーゼフ2世はモーツァルト冷遇派が暗躍する中、モーツァルトへのオペラ委嘱を続け、グルックの死後はモーツァルトを宮廷作曲家に任命しています。
〇大司教コロレドはヨーゼフ2世の改革に不信感を持ちモーツァルトを冷遇する
 マリア・テレジアが亡くなると、皇帝ヨーゼフ2世は大胆に改革を進めますが、ウィーン宮廷にはこの改革に反発する旧臣勢力も残っていたようです。大司教コロレドもこの勢力の一人で、恐らくモーツァルトが皇帝ヨーゼフ2世から作曲家としての信頼を得ていたことを知っていたと思われますが、モーツァルトを召使いと同様に扱いモーツァルトの反発を一層強めたようです。
 このように、大作曲家モーツァルトは苦難のフリーランスの道を歩き経済的にも苦しめられたわけですが、このモーツァルトの経験が、ベートーヴェン、ロッシーニの作曲家の報酬改革のきっかけとなり、多くのロマン派の作曲家の輩出を生み、多様なロマン派時代が到来します。ウィーン中心部のドイチェスハウスの中庭がフリーランス作曲家の出発点となり、モーツァルトによって作曲家にとってのもっとも重要な経済的基盤のきっかけが作られたといえるのではないでしょうか。

【音楽史年表より】
1780年夏、モーツァルト(24)
ミュンヘン宮廷のオペラ監督ゼーアウ伯から1781年の謝肉祭のための新作オペラ作曲の依頼を受ける。(1)
10月、モーツァルト(24)
歌劇「クレタの王、イドメネーオ」K.366の作曲を開始する。(1)
11/5、モーツァルト(24)
モーツァルト単身でミュンヘンへ出発する。(第3回ミュンヘン旅行、約4ヶ月)(1)
11/29、モーツァルト(24)
女帝マリア・テレジアが亡くなり、1765年以来女帝と共同統治を続けてきた息子のヨーゼフ2世が本格的な単独統治を開始する。啓蒙専制君主として名高いこの皇帝は、この後理想的な近代国家の建設を目指してさまざまな改革に乗り出すことになる。(2)
1781年1/29初演、モーツァルト(25)、歌劇「イドメネーオ」K.366
ミュンヘン宮廷劇場(選帝侯宮殿内のキュヴィリエ劇場)で初演される。父レオポルト、姉ナンネルがこの上演のためにザルツブルクから訪れている。オペラ「イドメネーオ」はその後、2回上演された。(3)(1)
3/7~3/10、モーツァルト(25)
モーツァルト、父レオポルト、姉ナンネルの親子3人でアウグスブルクを訪問する。(1)
3/12、モーツァルト(25)
モーツァルト、ミュンヘンからウィーンへ出発する。(1)
3/16、モーツァルト(25)
モーツァルト、ウィーンに到着する。モーツァルトはザルツブルク大司教の父ルードルフ・ヨーゼフ・コロレード侯爵邸であるドイツ騎士団の館(ドイチェスハウス)に宿泊する。(1)
4/3、モーツァルト(25)
ウィーンのケルントナートーア劇場でモーツァルトの交響曲第34番ハ長調K.338が演奏される。2管編成(ただし、Fgは6本)、Vn40、Vla10、Vc8、Cb10の大編成で演奏される。コロレド大司教がモーツァルトに許した唯一の公開演奏会となる。(1)
4/7?作曲、モーツァルト(25)、バイオリン・ソナタト長調K.379(アウエルンハンマーソナタ第5番)
従来は大司教の命令で4/8にドイチェスハウスで開かれた演奏会のために前日の夜中に作曲された曲と推測されていたが、変ホ長調K.380をその曲とする新説が有力視されている。(1)
4/8初演、モーツァルト(25)、バイオリン・ソナタ変ホ長調K.380(アウエルンハンマーソナタ第6番)
ウィーンのドイチェスハウスの音楽会でブルネッティのバイオリン、モーツァルトのクラヴィーアで初演される。モーツァルトは暗譜で演奏した。モーツァルトは翌日の演奏会のために前の晩の11時から12時にかけて作曲し、時間がなかったためザルツブルクの同僚ブルネッティのバイオリン・パートのみを楽譜に書き、自分のパートは「頭にしまったまま」本番に臨んだという。(1)
4/8初演、モーツァルト(25)、バイオリンのための協奏的楽章「ロンド」ハ長調K.373
ウィーンのザルツブルク大司教の父ルードルフ・ヨーゼフ・コロレード侯爵邸(ドイチェスハウス)の音楽会でブルネッティのバイオリン独奏により初演される。この音楽会ではモーツァルトの3曲の新作が演奏された。(1)
4/8初演、モーツァルト(25)、レチタティーボとアリア「この胸に、さあいらっしゃって-天があなたを私に返してくださる今」K.374
ウィーンのドイチェスハウスでの演奏会でザルツブルク宮廷のソプラノ・カストラートのフランチェスコ・チェカレッリによって初演される。ジョバンニ・デ・ガメッラの「蒙古のシスマノ」の台本による。(1)
5月初旬、モーツァルト(25)
モーツァルト、ドイツ騎士団の館(ドイチェスハウス)を出てウェーバー家に寄宿する。(1)
5月もしくは6月、モーツァルト(25)
モーツァルト、宮廷劇場監督オルシーニ・ローゼンベルク伯爵からオペラの作曲を依頼される。(1)
5/9、モーツァルト(25)
モーツァルトと大司教が決裂する。帰郷命令を無視したモーツァルトを大司教が激しく罵り、腹を立てたモーツァルトは辞表を出すと言い放つ。(1)
6/8、モーツァルト(25)
モーツァルトは父レオポルトに頼まれてモーツァルトの説得にあたった大司教の侍従のアルコ伯爵と最後の話し合いを持つ。モーツァルトはこのアルコ伯爵をも怒らせてしまい、伯爵はモーツァルトを戸口に追い出し、その尻を足蹴にした。こうして、モーツァルトとザルツブルの関係は完全に断たれることになる。(1)
7/30作曲開始、モーツァルト(25)、歌劇「後宮からの誘拐」K.384
3幕のドイツ語ジングシュピールの作曲を開始する。ブレツナーの台本をゴッドリープ・シュテファニー弟が編作したテキストによる。この日、モーツアルトはシュテファニーからオペラ「後宮からの誘拐」の台本を受け取る。(4)(1)
12/24、モーツァルト(25)
皇帝ヨーゼフ2世はモーツァルトを宮殿に呼び、ちょうど来訪中だったイタリア人音楽家ムツィオ・クレメンティとクラヴィーアの腕を競わせた。結果はモーツァルトの完全な勝利で、皇帝はこれに大いに満足したらしい。皇帝はモーツァルトに早くから注目し、その才能を高くかっていた。(1)

【参考文献】
1.モーツァルト事典(東京書籍)
2.西川尚生著、作曲家・人と作品シリーズ モーツァルト(音楽之友社)
3.作曲家別名曲解説ライブラリー・モーツァルト(音楽之友社)
4.新グローヴ・オペラ事典(白水社)

SEAラボラトリ

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